人間を作るものが学校
きょうは江戸時代初期の儒学者、兵学者 山鹿素行(やまが そこう、名:高興・高祐、幼名:佐太郎、字:子敬、通称:甚五左衛門、号:陰山・素行)の誕生日だ。
1622(元和8)年生誕〜1685(貞享2)年逝去(63歳)。
陸奥国会津若松(現 福島県会津若松市)で生まれる。父は伊勢亀山藩出身の浪人 山鹿貞以(さだもち)で、故あって、会津藩の町野氏宅に居候していた。1628(寛永5)年6歳で江戸に出た。1630(寛永7)年8歳の時、幕府大学頭を務めていた林羅山の門人となり朱子学を学んだ。
15歳からは甲州流軍学者 小幡勘兵衛景憲、北条氏長のもとで兵学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学、老荘、諸子百家、仏教学など様々な学問を学んだ。江戸で山鹿流軍学を講じると諸大名が争って招いたが応じなかった。
1652(慶安5)年30歳の時、播磨国赤穂藩主 浅野長直に禄高一千石で仕えた。幕藩体制下の武士の日常生活の倫理を模索した。1660(万治3)年38歳の時、赤穂藩を致仕(ちし:退官すること)して江戸に帰った。素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえた。
素行は武人として実践的な孔子の教えの原点である聖学に帰ることを主張し、「山鹿流兵法」として武士道を政治哲学まで高めた。赤穂の10年間、藩主の浅野内匠頭や、大石内蔵助ら四十七士を薫陶した。また素行の思想は、幕末の吉田松陰や乃木希典の生き様に体現され、脈々と受け継がれ、日本的道義を支えてきた。
1665(寛文5)年33歳の時、幕府官学である朱子学を空虚で非現実的として批判、『聖教要録』を著し、原典復古主義と実践主義とを唱導した。伊藤仁斎と並んで「古学派」の祖と称された。このため幕府はこれを危険思想として、時の執権会津藩主 保科正之は、素行を朱子学批判の罪で翌年再び赤穂藩へ幽閉した。
素行はここで赤穂藩士の教育などを行った。日本の風土と歴史を中国のそれと比較し、日本の優秀さを強調した。また、当時生産階級でなかった士階級を教化階級、すなわち教師に規定し、赤穂義士の思想に大きな影響を及ぼした。忠臣蔵討ち入りで大石内蔵助が叩いたのは山鹿流の陣太鼓だ。
1675(延宝3)年53歳の時、許されて江戸に帰り、私塾「積徳堂」を開いて門人を教育したが、浪人の入門は許されなかった。
素行は、学校が必要だと説いた。
学校は、単に「学問を教え、ものを読み習わせる所」ではなく、「道徳を教える」所であり、つまり、「人間を作るものが学校である」と。
素行は、山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、武士階級を擁護した。『中朝事実』において独特の日本主義思想を展開し、日本主義思想家の祖とも称せられた。他の著書に『武教要録』『武教全書』『配所残筆』『山鹿語類』『武家事紀』『原源発録』などがある。
素行は、歴史的発展が同時に野蛮より文明への発展であり、生活様式の複雑化を必然に伴うとし、これによって、古代の素朴を笑ったり、逆に現代の華美を嘆いたりすることの過誤を指摘した、文明化の大胆な肯定者として、一般に尚古主義的傾向の強い徳川時代の学者の中で異色ある存在である。
山鹿素行は、若いころから朱子学をはじめ兵学や歌学、老荘などを当時の最高レベルの人から学んでいる。そのうえで自分流を考え、門人たちに教育する中で、さらに実践的な学問へと発展させている。
企業においても、工場やシステムなど世界の一流を見たり聞いたり実際に働いたりして学んだうえで、自社に合ったものをつくり、それをさらに発展させていくのが効果的である。本物を見ることと自分流を考えることが大切だ。
山鹿素行のことば
「多くを見聞きして知識を得るような勉強をしても、
物事の究極をきわめなければ、博識であるだけで、
実行に移すことはできないし、自分を救うこともできない」
「自分の知が明白で通じていると思っても、それを他に及ぼして
物が落ちつかなかったり、すっきりしなかったりしていれば、
その知は、ほんものでなく、真理にそむいた判断である」
「学問は、天子より庶人に至るまで、一にこれ皆身を修むるをもって本となす」
山鹿素行の本
聖教要録・配所残筆 (講談社学術文庫)
山鹿素行―「聖学」とその展開
山鹿素行 (人物叢書)
山鹿素行
ますらをの道―武蔵・道元・山鹿素行