国家的な技術的事業の基礎

岡田武松

きょうは気象学者 岡田武松(おかだ たけまつ)の誕生日だ。
1874(明治7)年生誕〜1956(昭和31)年逝去(82歳)。

千葉県我孫子市布佐に当時呉服商を営む由之助・ひさの二男(4番目の子)として生まれる。幼い頃から、同じ下総ノ国佐原の生まれである井能忠敬を崇拝し、自分も将来「人のためになることをしたい」と心に誓っていた。

ノルマントン号(明治19年、武松12歳の時)、エルトクルール号(明治23年、17歳)の日本海域での沈没事故に強い衝撃を受け、これが気象を志す契機となった。死者7273人、家屋損失14万戸という大被害を招いた濃尾大地震(明治24年、18歳)や、4年以上にわたる利根川の水害頻発(明治26年から、19歳)が、将来防災に尽力しようという決意を固めさせた。
1892(明治25)年18歳のとき日比谷の尋常中学校に入学、取引先の京橋の呉服商に下宿して以後、1941(昭和16)年67歳で布佐に帰る迄の49年間、主として東京で生活した。

1899(明治32)年25歳で東京帝国大学理科大学物理科を卒業した。同年困難な割に待遇が悪く大学出には落ち着かない職場と言われていた中央気象台に、岡田は大いなる希望実現を目指し、強固な意志をもって就職した。

予報課に勤務、就職後も刻苦精励し、研究論文を続々と発表した。1901(明治34)年27歳の時、茨城県布川町の海老原光子と結婚した。

同年、技術者の再教育を目的に処女出版『近世気象学』を刊行、1908(明治41)年34歳の時『気象学講話』を自費出版し、経験とカンに頼っていた当時の天気予報に、低気圧の発生や盛衰、その進路を見極める理論「岡田の法則」を導入し、現在の天気予報の礎を築いた。

1904(明治37)年 日露戦争が勃発し、中央気象台は軍関係に対する気象通報を充実するよう命を受けた。前戦に出征した上司の後任として岡田は若冠31歳にして予報課長兼臨時観測課長に任ぜられた。

翌1905(明治38)年5月27日、日本海海戦に際し歴史上有名な「天気晴朗なるも浪高かるべし」の予報文を発し、見事適中させ勝戦の一因を担った。
これを連合艦隊指令長官 東郷平八郎率いる日本艦隊が、日本海でロシアのバルチック艦隊を殲滅(せんめつ:すっかり滅ぼすこと)した時に、東郷元帥が大本営に『天気晴朗ナレド 波高シ』と使って戦場の模様を報告した。

911(明治44)年37歳の時、従来の諸説の不充分さに対し綿密な解析を行った「梅雨論」で理学博士となった。1916(大正5)年42歳の時『雨』を刊行、1919(大正8)年45歳の時 東北帝国大学教授を兼任した。

折からの海難の増加や風水害の多発に海洋気象に対する熱意は熟し、1920(大正9)年、時の政府をして「神戸海洋気象台」の設立を実現させ、初代台長に任ぜられた。この気象台は、以後、海洋調査、海上気象警報の制度化を行い、海難を救い、漁業や航海の発展に計り知れない寄与をする基となった。

また、1922(大正11)年には世界最初といわれる気象放送専門の「無線電信所」を海洋気象台内につくった。また同年、中央気象台内に技術職員の養成機関である「測候技術官養成所」をつくった。中村精男の後任として、1923(大正12)年から1941年まで第4代中央気象台長に就任し、文字通り日本の気象事業の最高指導者となった。

岡田は気象台の内外の人々から王偏の「理」学博士ではなく、獣偏の「狸」学博士と言われ、自身もこれを認めていた。悪く言えば気象台のタヌキオヤジであり、一般の大学教授等にみられぬ政治家的手腕を持っていた。しかもなお法科的官僚を嫌い、部内に養成所をつくったのも、地方で働く技術者が、文科系の管理職に支配されることから何とか脱却したいと考えたからであった。

岡田が管理職として優れていたのは、人を使うことが名人と言われるほどの才能を持っていたことである。たとえば自室に人を呼びつけるためのベルは置かなかった。必要とあれば、その人のところに自ら出かけて行って用を決めた。

岡田は測候所の管理上、建物の雨もりの修理等にも詳しく、養成所の講義では将来そこで働く人のために雨もりの講義までした。養成所の講義の中には器械が壊れたとき、これを自ら修理できるよう、気象台付属の工場から金工や木工の熟練者が講師となり、旋盤やロウヅケの実習も行われた。

また「小使(こづかい)」という言葉を嫌い、気象台では「丈夫(じょうふ)さん」と呼んだ。道で歩いているとき、岡田に出会うと、先に帽子をとられるので生徒はまごつくことがしばしばであった。昼食は職員と一緒に神田のソバ屋に出かけることが多く、一般の客と共に平土間で歓談した。

風貌は志ん生に似たところがあった。その話術は巧みに間をおき、江戸前の気配がした。養成所は全寮制の専門学校(のちの気象大学校)であったが、岡田はしばしばそこに出かけ生徒と食事をすると共に、多くの田舎者にジェントルマンとしての躾(しつけ)をした。

1924(大正13)年 英王立気象学会よりサイモンズ賞を受け、翌年同学会名誉会員となった。1931(昭和6)年からは雑誌『科学』(岩波書店)の編集委員となった。在任中の仕事としてもっとも大きいのは、全国の地方測候所の国営移管を完了したことであった。

1927(昭和2)年、わが国最初の気象学教科書『気象学』刊行、以後版を重ねた。気象台退職後は中央気象台参与、嘱託として職員の研修にあたった。
子供好きであったことも有名で、布佐の屋敷の一角に小さな図書室「岡田文庫」を作り、自由に子供たちが出入りして読書を楽しめるようにした。

岡田は自らの研究業績を上げるより、貧弱な気象事業を先進国の水準に高め、後進の育成に全力を挙げることこそ大切であると考えていた。オリジナルな学問的成果を数多く発表したというよりは、国家的な技術的事業の基礎を確立した。また気象学についての標準的教科書を出しつづけ、気象についての一般的知識の向上をはかり、いずれも版を重ねた。

岡田の研究心は専門分野以外にも「雑学」と称して広く知識を求め、地震学にも秀でた。また、1905〜6(明治38〜39)年の米凶作、東日本の大霜害等の気象害発生に伴い、農学に初めて気象学を取り入れる功をなしている。
1956(昭和31)年、急性心臓衰弱を併発し、自宅にて亡くなった。この年、中央気象台は、気象庁に昇格した。

岡田武松は、近代気象学の先覚者と云われたが、論文などによる自分自身の地位の上昇よりも、人に役立つことを優先している学者だ。本も一般の人でも理解できるものだし、気象関係の施設も人に役立つものである。

企業においても、自分の出世のための仕事よりも、会社のための仕事であるべきだし、できればお客様のことを考えた仕事であってほしいものだ。
さらに、地域への貢献や人類の進歩のための企業活動であるなら、その会社は世の中にとって必要とされる存在として継続できるはずだ。

★台風★ 
気象学では、最大風速 毎秒17.2m以上の熱帯低気圧を指す。
 
日本で「台風」という言葉を初めて使ったのは、岡田武松である。
中国の言葉の颱(タイ)の字が熱帯低気圧を意味していることと、台風は英語のTyphoon(タイフーン)と発音が似ていることから、台風という言葉を使うようにした。

「台風」という呼称がみられるのは1906(明治39)年ごろで、一般に広く用いられるようになったのは大正以後と云われている。

岡田武松の本
  北越雪譜 (ワイド版岩波文庫)北越雪譜 (ワイド版岩波文庫)