研ぎ澄まされた感性
きょうは詩人 三富朽葉(みとみ くちは、きゅうよう、本名:義臣)の誕生日だ。
1889(明治22)年生誕〜1917(大正6)年逝去(27歳)。
長野県壱岐郡武生水村の官選戸長を長らく勤めるという名家の長男に生まれる。7歳の時、渡良村の三富本家の伯父の養子となった。父 道臣は壱岐石田郡長だったが、息子 義臣(朽葉)が、学齢期に達すると、9年間の石田郡長の職を返上、上京し牛込に居をかまえ、三功社という民間の金融業を開業し成功した。
義臣は、名家 三富家の跡取り息子になるはずだった。富士見小学校高等科二年を卒業し、フランス系列の暁星高校へ入学した。
このころから「新小説」「文庫」などに短歌や詩を投稿した。
さらに早稲田大学高等予科文学科を経て、1908(明治41)年9月19歳の時、早稲田大学本科英文科に進学。早稲田大学予科在学中、西条八十らと雑誌「深夜」を発行、文学へ傾倒して行った。
1909(明治42)年20歳の時、人見東明、加藤介春、今井白楊、福田夕咲らと「自由詩社」を結成し、口語自由詩を唱道した。
象徴主義の影響を受けた倦怠的・耽美的な詩を、機関誌「自然と印象」、「早稲田文学」等に発表し、その口語散文詩は、先駆的作品として評価された。
1910(明治43)年頃からフランス象徴主義のランボー、マラルメ、ボードレールなどのフランス近代詩人の影響を受けた。マラルメの散文詩の訳出などフランス象徴詩の翻訳・紹介の分野に見るべきものがあり、詩作との関連で期待されていた。
1917(大正6)年8月2日、避暑先の千葉県犬吠崎で遊泳中、詩友の今井白揚とともに溺死した。享年僅か27歳だった。このため、朽葉の作品は数少なく、人に知られることもなく隠れてしまった。だが、その研ぎ澄まされた感性の描く青春の憂愁は、北原白秋、西条八十、あるいは大手拓次に劣るものではない。
代表詩集に「第一詩集」「營み」「生活表」などがある。第三詩集「生活表」は、象徴主義的な口語散文詩の先駆といわれる。
三富朽葉は、名前のようにはいかず、若葉のうちに散ってしまった。生前詩集をもたず、夭折してしまったのでほとんど知られることが無いが、彼の作品にはそれを予感させるような哀愁・悲しさがあるようにも思える。
企業においても、いつまでもその企業が存続するとは限らないし、社員としてもいつまでもその企業で働けるとは限らない。
しかし、その中においても、日々努力を怠らず、前向きに、勝ち残ろうという気持を持ち続けた企業や社員が成果をあげ、勝ち残るのだ。
三富朽葉 [雨の唄]・・・朽葉は雨が好きだった。 緑の苔も白み行く 此の麗しい雨の時 わが指は火の如く 此上(こよ)ない虹を胸に描く 雨の抛(はな)つ蠱(まじ)の唄 生命(いのち)の苑(その)の蠱の夢 わが渇く唇は 黄金(こがね)の春を喉に摘む 又新しく爽やかな憂愁(うれい)の祭礼(まつり)―― 昨日は悲しみ 明日は死(しに) 色も香も悩ましく雨に塗(まみ)れて 花と策 魂の花 今日のわれ おお降り注ぐ浄らかさ 此の生(せい)の時―― 豊かさ 優しさ 麗しさ 此の雨の時――