堅実な経営と企業存続

早矢仕有的

きょうは丸屋商社(現 丸善)を創業した 早矢仕有的(はやし ゆうてき)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1901(明治34)年逝去(63歳)。

武儀郡笹賀村(現 岐阜県山県市笹賀)の医師の家に生まれた。有的が誕生する2カ月前に父が病死し、17歳の時には母も亡くなった。幼少時より明敏で、漢学、医学、蘭学を学び、若干16、7歳で医師の代診をはじめ、18歳のとき筒賀村で家業の医業を継いだ。

青年医師として5年間医療に従事し、村民からも重んじられていたが、同郡中洞村庄屋の高折善六が、有為の才を抱きながら田舎医師として埋没することを惜しみ、江戸へ出ることを勧めた。
1859(安政6)年22歳のとき、向学の志を抱いて江戸に出た。
江戸での有的は、はじめ按摩を業とし、さらに医学を修めたあと、1860(万延元)年23歳で医業を開業し、江戸の名医と言われるまでになった。また、診療の傍らに蘭法医学を坪井信道に学んだ。

その後、1867(慶応3)年29歳の時、慶應義塾創始者 福沢諭吉(当時32歳)に師事し、英学を学んだ。二人の関係は単なる師弟という立場よりも、志を同じくする友人という立場に近かったようだ。
有的は、新しい日本の建設には商業、特に貿易の振興が大切であることを学び、これまでの名声に固執することなく医者の廃業を決意した。

福沢のすすめもあって、1868(明治2)年31歳のとき西洋の書籍や雑貨など、西洋文化の産物を輸入する貿易事業を横浜新浜町の自宅ではじめた。
これが日本最初の株式会社「丸屋商社」、現在の「丸善」のはじまりである。

当初、社名は世界を相手にする意味から、地球の球の字をとり「球屋」と名付け「マルヤ」と呼んでいた。ところが、人々は「タマヤ」とか「マリヤ」などと読み誤ったため、「丸屋」と改めた。

また、丸屋の店主名は「丸屋善八」だったが、これは有的の仮名。「善八」の由来は、江戸行きを勧めた郷里の高折善六の恩義に因んだもの。
ちなみに、その後開設した東京、大阪、京都の各支店の店主名は「善六」「善蔵」「善吉」とすべて「善」の字が付けられた。

1872(明治5)年、福沢が慶應義塾内に設立した「洋服仕立局」を受け継ぎ、これが丸善の洋服の原点となった。
また、好んで食したカレーライスのような料理が評判となり、早矢仕が作ったライスから「ハヤシライス」の元祖といわれるが、真偽の程は不明。

今から130年以上前、 約200年にわたる鎖国が解かれたばかりの日本は、西欧文明に大幅な遅れをとっていた。このような時代背景の中で、有的が書いた「丸屋商社之記」は、創業の理想と精神を謳った設立趣意書である。

有的はまず、親子代々世襲の個人商の欠点を指摘した。ウェーランドの『経営哲学論』を参考に、元金を出資する「元金社中(株主)」と実際に働く「働社中(社員)」によって構成する会社組織を日本ではじめて採用した。

また、近代簿記などの新しい制度を普及させ、洋書・洋品などの文物をいち早く日本に紹介してその近代化に貢献すべきと説いた。
その一方で、商売の素人であるとの自己認識に基づき、節度、誠実、信用、倹約によって堅実な経営と企業存続を目指すべしとした。

近代的な会社組織を目指した「丸屋商社之記」は、その先駆性と使命感とにおいて、単なる一私的商社の設立書を越えたものとして評価されている。
丸善」の創設は、福沢の会社組織に関する理念を、有的が日本において初めて実現させたものと言われている。

その後、有的は1879(明治12)年42歳のとき「丸屋銀行」を、1880(明治13)年には「貿易商会」を開設した。
また同年には丸屋商社を改組し、株式会社「丸善商社」とした。
1901(明治34)年1月、福沢諭吉が亡くなるが、後を追うように有的も、翌2月に亡くなった。

早矢仕有的は、福沢諭吉の意を受け、書籍を中心とした西洋物品輸入事業を行い、日本の近代化促進に大きな足跡を残した。西洋物品の輸入を通して、欧米の進んだ知識、技術、思想の普及をバックアップし、日本の近代化を進めた有的の業績は大きなものがある。

企業においても、ハードであれソフトであれ、それを通して企業の技術や考え方を売ることになるので、そのような意識を社員全員が持つことが望ましい。それは顧客満足度(CS)のベースになる考え方かもしれない。


早矢仕有的の本
  丸善外史