ナショナリズムと人脈形成

川崎正蔵

きょうは川崎重工業を創業した造船王 川崎正蔵(かわさき しょうぞう、幼名:磯次)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1912(明治45)年逝去(75歳)。

鹿児島城下大黒町の呉服商人 川崎利右衛門の長男に生まれた。15歳のときに父を失い、家督を相続、藩命によって金や米を扱った。また、独学で英語など学問を修得し、17歳で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て、貿易商 浜崎太平次のもとで修業を積み、はやくも正蔵の非凡な才能が認められた。

1863(文久3)年27歳のとき大阪へ進出して回漕業を営んだが、このときは持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗した。そして、1869(明治2)年32歳の時に薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う砂糖工場に勤めた。
この経験が明治新政府に買われ、1873(明治6)年に大蔵省から琉球藩の砂糖調査、航路調査を委嘱された。
翌1874(明治7)年、前島密 駅逓頭(えきていのかみ:郵政大臣)の推挙で「日本国郵便蒸気船会社」の副頭取となり、琉球航路を開発、砂糖等沖縄物産の内地輸送を独占的に扱い蓄財した。

明治新政府琉球政策について、正蔵は「武力によらず、信義を重んじ、親愛の情を持って誠意を尽くすことが最良策」と建議(けんぎ:意見を申し立てること)した。
このことによって、琉球藩と新政府の関係は好転し、1879(明治12)年、沖縄県が誕生した。

この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになった。

正蔵は、1878(明治11)年41歳の時、時の大蔵大輔(たいふ:現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助により、東京・築地南飯田町(現 中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて「川崎築地造船所」を開設、造船業への第一歩を踏み出した。

1887(明治20)年には神戸に「川崎造船所」を設立し、今の川崎重工の基礎を築きあげた。そして、1890(明治23)年 第1回帝国議会開設の際、兵庫県選出貴族院多額納税議員となった。
正蔵は、1896(明治29)年10月、「株式会社川崎造船所」が誕生すると同時に造船経営の第一線から引退した。

その後は、内地と朝鮮の土地経営に乗り出すかたわら、「神戸川崎銀行」(大正9年十五銀行に合併)、「神戸新聞社」(明治31年設立)などの創業者として、さらに高名な美術収集家として活動した。
1912(大正元)年12月2日、神戸布引の自邸で75歳の生涯を閉じた。

正蔵の遺志により、1917(大正6)年、神戸に私立川崎商船学校が設立された。この学校は、国立神戸商船大学を経て、国立神戸大学海事科学部に発展した。

川崎正蔵は、強いナショナリズムと人脈形成能力を持った政商型の企業家としては有能であったが、次期社長を養成する包容力に不足し、創業以来の腹心の部下である渡辺尚も1890(明治23)年に退社してしまった。

子供運の悪かった正蔵は松方幸次郎に後事を托したが、川崎総本店の鹿島、石井、関口の3理事も経営をコントロールできず、川崎財閥は昭和初期の恐慌期に崩壊してしまった。

企業においても、後継社長の育成は現社長の最大のテーマであり、これに失敗すると企業の存続も危うくなる。
これは社長職に限らずどの地位においても考えなければいけない問題である。 


川崎正蔵の本「創造と変化」に挑んだ6人の創業者 (B&Tブックス)神戸を翔ける 川崎正蔵と松方幸次郎
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