器量の大きさは注目すべき

下中弥三郎

きょうは平凡社を創立した 下中弥三郎(しもなか やさぶろう)の誕生日だ。
1878(明治11)年生誕〜1961(昭和36)年逝去(82歳)。

兵庫県今田(こんだ)村(現 篠山市今田町)に陶工 下中喜久蔵の子として生まれた。幼少のとき父を亡くし、母の手一つで育てられた。少年時代は家業の立杭焼きに従事していた。小学校に3年間在学しただけであったが、その後の独学・苦学の体験が彼の多彩な事業や行動を性格づけた。

1897(明治30)年19歳の時、大志を抱いて神戸に出、持ち前の辛抱強さと頑張りによって、独学によって教員検定試験に合格、小学校代用教員となった。1900(明治33)年22歳の時には県内有数の国語教育指導者となった。
1902(明治35)年24歳の時、東京に出て私立日本女子美術学校を経営する一方「婦女新聞」記者として活躍した。1910(明治43)年には埼玉県師範学校の教師に迎えられた。さらにはジャーナリストに転じて、婦人の地位向上運動にも積極的に参加し活躍した。

1919(大正8)年 教え子の青年教師を中心に「啓明会」を結成、教員の社会的自覚、自由獲得のための団結を訴え、翌年「日本教員組合啓明会」と改称、『教育改造の四綱領』を決定した。そこでは、教育を受けることは国家による義務ではなく、万人の権利である (学習権) とし、教育委員会制度の創設などを提言した。

1923(大正12)年45歳の時「教育の世紀社」を創立、1924(大正13)年「児童の村小学校」の設立にも協力した。また1925(大正14)年「教育擁護同盟」を結成し、義務教育費全額国庫負担を要求、半額負担を勝ち取った。

その間、1914(大正3)年36歳の時、「平凡社」を創設し「や、此れは便利だ」を出版、出版人としての本格的な歩みをはじめた。1923(大正12)年45歳の時、「平凡社」を株式会社として取締役社長となった。

出版事業において、世界美術全集、大衆小説全集、百科全集等を次々に世に出した。それらにより、「平凡社」を大手出版に飛躍させるとともに、一躍出版界のリーダー的存在となった。彼には、日本人が自主的に学習をすすめるための文化的環境をととのえようとする願いがあった。

1925(大正14)年47歳の頃から農民自治会の運動に入り、1931(昭和6)年以降大アジア主義者として活動、1940(昭和15)年62歳のとき大政翼賛会発会に協力した。戦後、戦犯として公職追放され、1951(昭和26)年73歳の時 追放解除により「平凡社」社長に復帰した。1957(昭和32)年79歳の時 日本書籍出版協会初代会長に就任、また出版文化の国際交流に果たした役割も大きい。

1951(昭和26)年73歳の時、「世界連邦」を主唱し、1955(昭和30)年には世界連邦建設同盟理事長に就任した。さらに、湯川秀樹らと「世界平和アピール七人委員会(略称:七人委員会)」を結成し、平和問題に関する意見の表明を行った。

また日中文化交流にも大きな役割を果たした。
世界連邦アジア会議などをつとめ、「怪物」の誉れをうけている。その器量の大きさは注目すべき人物である。

1920(大正9)年には今田村の電灯設備の充実、1924(大正13)年の大干ばつ時には今田村の財政再建に奔走するなど、郷里のために尽力している。、1984(昭和59)年、弥三郎の事蹟を記念する顕彰塚として「やさが塚」が建立された。塚名は故人の幼い頃の愛称にちなんで命名されたもの。

下中弥三郎は、出版事業をやりながらも、教育運動を始めとする社会運動を積極的に行った。彼の中では、社会運動が主で、出版事業は従であったかもしれないが、その両方について大きな実績を残していることから、彼の偉大さがわかる。 

企業において、通常の業務(本業)のほかに、定時後とか休日にアルバイトをしたり他の副業をしたりする人がいるが、やはりそれは控えるべきである。それらの時間は本業のための休息であったり自己啓発に当てるべきだ。趣味やボランティアであっても本業がおろそかになるようではいけない。


下中弥三郎の本
  西郷隆盛―明治維新の指導者 (岩崎少年文庫)
  下中弥三郎労働運動論集―日本労働運動の源流
  平和にかける虹―人間・下中弥三郎 (イワサキ・ライブラリー)
下中弥三郎労働運動論集―日本労働運動の源流