情熱こそ無限動力

豊田喜一郎

きょうは「世界のトヨタ」の礎をつくった 豊田喜一郎(とよだ きいちろう)の誕生日だ。
1894(明治27)年生誕〜1952(昭和27)年逝去(57歳)。

静岡県敷知郡吉津村山口(現 湖西市)で生まれた。生家は貧しく、父の佐吉は17歳の頃から織機の研究に没頭していた。東京、名古屋、豊橋などを転々としていた佐吉が、家にいることはほとんどなかった。喜一郎が生まれた時も佐吉は豊橋にいた。

出生の知らせを聞いた佐吉は、いったんは家に戻ったが「喜一郎」と命名するとすぐに豊橋へ戻ってしまった。そんな生活に愛想をつかした佐吉の妻「たみ」は、喜一郎を生んで2か月後には実家に戻り、再び佐吉の元へ帰ることはなかった。喜一郎は祖父母である「伊吉」と「えい」によって育てられた。
喜一郎が3歳の時、父 佐吉は再婚し、名古屋市内に家を構えた。こうして、喜一郎はようやく父親と共に生活するようになった。やがて異母の妹「愛子」が生まれた。喜一郎と愛子は異母兄弟とはいっても、非常に仲の良い兄弟であった。

喜一郎は名古屋の小学校、中学校(旧制)を経て、仙台の第二高等学校(旧制)を卒業、23歳のとき東京帝国大学工学部機械工学科へ入学した。1920(大正9)年26歳で同大学を卒業、すぐに同法学部へ入学した。ここで半年間、授業を聴講した。

豊田自動織機製作所の初代社長は、妹 愛子の夫として豊田家へ婿養子に入った利三郎である。現在なら利三郎が喜一郎の義理の弟となるが、当時の民法では、同一戸籍内にある者は、年長者が兄と決められていた。

1921(大正10)年27歳で、豊田紡織に就職してすぐ、喜一郎は豊田利三郎・愛子夫妻とともに、約半年間に及ぶ欧米視察旅行に出かけた。この旅行の最大の目的は、当時イギリスにあった世界有数の繊維機械メーカー「プラット社」での研修だった。喜一郎はプラット社の工場の近くに下宿し、紡績機械の製造現場を2週間以上にわたり研修し、工場レイアウトから、機械の製造工程などを細かく記録した。

父 佐吉は自動織機の開発で特許を取得しており、日本人による自動織機特許の第一号である。欧米視察旅行から戻った喜一郎は紡織機の研究開発に専念し、1924(大正13)年30歳の時、無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型自動織機)を完成させた。

豊田自動織機製作所が1926(大正15)年に現 刈谷市に設立され、同社の常務取締役に就任した。ここで生産されたG型自動織機は画期的な織機は、日本の織物工業の発展に尽くしたばかりか、海外にも輸出され、日本の経済発展に大きく貢献した。

喜一郎は、G型自動織機の組み立てに、チェーンコンベアによる流れ作業を採用した。この方式が後に自動車の生産ラインにも応用され、「ジャスト・イン・タイム」といったトヨタ生産方式へとつながっていった。この方式は、単に量産技術の確立を図るだけでなく、品質確保の確立も図られていた。

1929(昭和4)年33歳の時、喜一郎は欧米に出張し、G型自動織機の特許権譲渡契約をイギリスのプラット社との間で締結した。ところが、1921(大正10)年に喜一郎が研修した時に見たイギリス繊維業の繁栄の姿はすでになく、プラット社のあるオールダムの町は失業者であふれていた。

いずれ、日本にもイギリスと同じような状況が訪れることを予測した喜一郎は、新規の事業に乗り出さなければならないと感じた。英国プラット社との特許権譲渡契約を締結した翌1930(昭和5)年5月、喜一郎は豊田自動織機製作所に「自動車の研究室」を開設した。
その年の10月、豊田佐吉は逝去した。

自動車の研究で最初に取り組み、とりわけ苦労したのがはエンジンだった。工場の中にベッドを持ち込み、夜中まで仕事に打ち込んだ。スミス・モーターのエンジンを参考に、度重なる失敗を重ね、小型エンジンを完成させたのは、研究をはじめて約5か月後だった。

豊田自動織機製作所に「自動車部」が設置されたのは、1933(昭和8)年の秋。そして、将来製作する自動車のモデルとして、シボレーを一台購入した。さらに豊田自動織機製作所が自動車事業進出を正式決定したのは1934(昭和9)年1月。
3月には自動車の試作工場が完成し、その年の9月にはトヨタ最初の自動車用エンジン「A型エンジン」の試作が完成した。

喜一郎は、自動車用特殊鋼を開発するため、1934(昭和9)年40歳の時、豊田自動織機製作所に「製鋼部研究所」を完成させた。自動車製造には製造技術とともに材料技術が大切であるという喜一郎の考えがあった。しかし、準備を進めていくうち、目的にあった材料を高品質で供給するには自給する必要がある、との考えに変わっていった。

1935(昭和10)年、A型エンジンを搭載した「A1型乗用車」の試作を完了させた。A1型を生産販売したのがAA型である。寸法の単位はセンチではなくインチで、ネジもマイナスねじだった。ドアは観音開きで、オーナー用に後部座席が広く設計してある。ウィンカーは無い。当時の販売価格は約3300円、現在の貨幣価値で、約5000万円。

喜一郎が作りたかったのは、あくまでも乗用車であった。しかし、日本は徐々に戦争への暗い道を歩み始め、兵員や兵器運搬のためのトラック製造が軍部によって求められるようになった。そこで、喜一郎は1934(昭和9)年から、トラックの製作も計画した。

トラックのエンジンはA1型乗用車と同じものを使い、フレーム、ボディ、シャーシなどは、フォードとシボレーの部品がそのまま使えるように設計した。こうして、1935(昭和10)年11月にG1型トラックの発表会を東京で行った。

同年12月には、愛知県挙母(ころも)町(現 豊田市)に約58万坪もの工場建設用地を取得した。そして1937(昭和12)年8月に「トヨタ自動車工業株式会社」が設立され、喜一郎は副社長に就任した。

喜一郎は、自動車の研究・開発に携わる一方で、本業である紡織の開発も手がけていた。1937(昭和12)年には、「スーパーハイドラフト精紡機」を完成させた。この機械の開発は、紡績の合理化に大きく貢献したと同時に、国産の技術を高く評価させることにもなった。

1938(昭和13)年11月、喜一郎が自動車の量産化を目指して建設を進めていた挙母工場が完成した。自動車製造を挙母工場へ移転するとき、それまでのインチ法からメートル法に変更した。この頃「ジャスト・イン・タイム」の実践を開始した。

喜一郎は飛行機の研究にも取りかかっていた。飛行機の研究所は、1936(昭和11)年42歳の時、東京芝浦に設立した。さらに挙母工場の完成によって同工場内に「飛行機研究所」を設立した。喜一郎の夢は、飛行機、ヘリコプター、ロケットへと地上から大空へ広がっていた。ヘリコプターの試作機は完成したが、ついに飛び立つことはなかった。

1941(昭和16)年1月44歳の時、トヨタ自動車工業の初代社長である義兄の豊田利三郎が会長に退き、喜一郎が社長に就任した。この年の12月、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入した。この頃は、喜一郎が夢見ていた乗用車の生産ではなく、トラックなど軍需関連の生産が中心となっていた。

1945(昭和20)年8月、日本の敗戦によって戦争は終結した。喜一郎はやがて大衆乗用車の時代が訪れることを確信し、すぐに量産小型乗用車の研究を開始した。1947(昭和22)年、トヨタ独自の設計による最初のエンジン「S型エンジン」が完成した。

このエンジンは小型、計量、低燃費を実現させることによって、戦後日本の経済事情や将来の海外輸出市場に対応できるように作られ、4気筒、1000ccサイドバルブ方式で、トヨタ独自のものであった。

S型エンジンの完成と同時に、同エンジンを搭載したトヨタSA型セダンの試作車も完成した。一般公募により、愛称は「トヨペット」と決まった。だが、連合軍総指令部(GHQ)は、自動車の生産を厳しく制限した。GHQによって許可されていたのは、戦後復興用のトラックを月間1500台だけであった。

しかしトヨタSA型セダンの試作車が完成した1947(昭和22)年7月に、海外貿易使節団を迎えるため使用できる乗用車の生産が可能かどうかの打診がGHQからあった。トヨタ自動車工業は、SA型セダン4台とAA型の改良型であるAC型50台なら可能と回答した。その結果、GHQは1500cc以下の小型乗用車の年間300台の製造許可を与えた。ここに、喜一郎の長年の夢であった大衆乗用車生産への突破口が開かれた。

1950(昭和25)年54歳の時、戦後の急激なインフレと各地で頻発した労働争議の波は、ついにトヨタ自動車にも押し寄せた。実質的倒産状況に陥り、経営の難局を乗り切るため、喜一郎に代わり、石田退三が社長に就任した。ところが、喜一郎が退陣したわずか20日後、朝鮮戦争が勃発し、日本経済は急速に息を吹き返し、成長へと向かった。

1952(昭和27)年2月、経営の立て直しに成功した石田退三は、喜一郎に社長としてトヨタ自動車に復帰するよう要請し、その年の7月に喜一郎は再びトヨタ自動車の社長に復帰することが決まった。だが、それはかなわず、3月27日、喜一郎は脳出血で倒れ、そのまま激動の人生を閉じた。享年57歳であった。

父佐吉から「自動車はどうだ。あれは無限動力だ。わしの環状織機と同じようにあれは無限走路を走る機械だ。喜一郎、お前がやってみるがいい」と言われ、自動車というモノづくりにかけた喜一郎の生涯も、父佐吉の生涯の繰り返しだった。
佐吉が発明した環状織機のごとく、世代から世代へとやむことなく、続いていく努力の根源である「情熱」こそ無限動力と言える。

豊田喜一郎は、義兄にトップを任せ、自分は技術の部門でのびのびと仕事ができたようだ。アイデアも独創的であったようだが、何と言っても決断と実行の早さがすばらしい。

企業においても、同族会社の是非が問われる場合があるが、その長所を活かせば、これほど仕事のやりやすい形態は無い。しかし、短所が出てくると、とことん醜い結果になるという危険性を持ち合わせている。


豊田喜一郎のことば
  「現場で考え、研究せよ」
  「今日の失敗は工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく」
  「日本の真の工業の独立をはからんとすれば、迫力を養はなければならない」


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