胸ポケットにしのばせ

西竹一とウラヌス

きょうは馬術金メダリストの陸軍軍人 西竹一(にし たけいち、バロン西)の誕生日だ。
1902(明治35)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(42歳)。

東京都で男爵家の三男として生まれる。父は薩摩藩出身の外交官 西徳二郎で、第三次伊藤博文内閣の外務大臣になった。10歳のとき、父 徳二郎が死亡、男爵家の当主となり、麻布の土地一万坪などの莫大な財産を相続した。これが後々の派手な彼の私生活を支えた。

学習院初等科から府立第一中学校へ進学したが、2年のとき突然、陸軍へ入りたいと言い、広島の陸軍幼年学校に進んだ。彼は、そこで馬術と出会った。
陸軍予科士官学校を卒業したが、当時の日本で馬術の選手になるには陸軍に入るしかなかったため、習志野にある陸軍騎兵学校に長期学生として入学、陸軍に籍を置きながら馬術選手としての人生を送った。
陸軍予科士官学校の彼は、中古の自動車を買い求めて麻布、赤坂界隈を猛スピードで走り回り、東京中の交番から「西を捕まえろ!」というお触れが出たりした。
しかしそこは御曹司。麻布警察署に職員宿舎を寄付したおかげで、その管轄内では捕まらないようになった。

あるとき、イタリア留学中の友人から、大きくて乗りこなせないために売りに出されている良い馬がいる、と手紙が届いた。アングロノルマンの中間種で血統証も無い去勢馬だった。彼は早速買い求め、調教をしながらヨーロッパの大会を転戦し、なかなかの成績を残した。それが生涯をともにしたウラヌス号だった。

日本近代馬術競技創始者である遊佐幸平(ゆさ こうへい)の指導を受け、1932(昭和7)年30歳の時、第10回ロサンゼルスオリンピックで、愛馬ウラヌス号とともに馬術大障害(馬術大賞典障害飛越競技)において、初出場ながら見事な演技を披露し金メダルを獲得した。

西とウラヌス号は第5障害まで無事に通過、第6障害で水濠に後脚を落とし減点、第9障害までクリア。最大の難関の第10障害、ここで左にそれて停止、2度目の飛躍で通過、残りの障害は無難にまとめゴール。減点8だった。
西は記者会見で「We won!」(私とウラヌスは勝った)と答えた。日本馬術史上、国際大会での初優勝だった。

当時の日本は、満州事件以降、国際連盟を脱退するなど国際的な非難を浴び、世界中から不信感を持たれていたが、彼の活躍がアメリカ人にさわやかな印象を与えた。そして馬術大障害のゴールでは11万人の観衆が「バロン ニシ、バロン ニシ」の大声援を送った。

西は、男爵(バロン)の称号を持ち、英語を流暢に話し、人柄も明るく陽気だった。ましてや、オリンピックの花形競技である優勝国賞典競技で優勝した。そんな彼は当時のアメリカ人が日本に抱いていた印象を払拭させる存在だった。

これがきっかけで、ロス名誉市民やサンタアニタ競馬終身名誉会員になり、パッカード社からは高級車が贈呈され、連日ハリウッド女優達から誘いの電話がかかるなど大歓迎だった。

1933(昭和8)年、騎兵学校教官となり、後輩の指導にあたった。1936(昭和11)年34歳の時、第11回ベルリンオリンピックにもウラヌス号とともに出場。落馬したが障害団体6位に貢献した。しかしこれが原因で、満州の戦車第26連隊隊長に転任させられた。
西は陸軍にあって最後まで頭を丸刈りにしない伊達男で、米国通の国際人であったため、冷遇されていた。

事実上、馬術家としての西の生涯はここで終わった。
尚、オリンピックの記録映画「民族の祭典」では陸軍の検閲によって西の落馬シーンはカットされた。1938(昭和13)年、西の最後の希望の砦であった東京オリンピックを、日本は返上することに決定。その3年後に太平洋戦争が始まった。

1944(昭和19)年6月20日41歳の時、満州にいた戦車第26連隊に本土の防衛線 硫黄島への動員命令が下った。連隊はひとまず内地に帰還、その後、輸送船「日秀丸(にっしゅうまる)」で横浜を発ち南下した。
西はこの命令が下った時、世田谷の獣医学校を訪れウラヌス号のたてがみを切り取り懐に入れた。

同年7月18日、硫黄島に向かう途中、父島北西290kmにおいて敵潜水艦の雷撃により「日秀丸」は沈没した。西連隊は満足な補充のつかないまま、歩兵戦闘に移行。敗戦色が濃いながらも、敵軍の猛攻撃に立ち向かった。

翌年2月16日から、3日間に渡る米軍による熾烈な艦砲射撃及び空爆を受けた。19日にはB29大編隊による空爆と沖に集結した艦隊による一斉射撃で、硫黄島全島の地形が変わるほどだった。その間、島の南海岸に約130隻の米軍上陸用舟艇第1派が上陸した。

その中、米軍から「バロン西、出て来て下さい、世界はあなたを失うのはあまりにも惜しい・・・」という投降勧告もあった。しかし、1945年3月17日、西は愛馬ウラヌス号のたてがみを胸ポケットにしのばせたまま玉砕した。享年42歳。当時中佐、死後大佐に昇進。
本土のウラヌスも主人の死から一週間後病気で息を引き取った。

西竹一は、男爵の称号とあり余る資産に加え洋風な性格で、自由気ままな生活を送ったようだ。愛馬ウラヌスとの息もぴったりで、馬術ですばらしい成績を残し、硫黄島では(共に)玉砕している。
やはり、おおらかで思い切りのいい性格だったのだろう。

企業においても、命をかけて取り組むことのできる業務を持ったり、命をかけてついていくことのできる上司に巡り会えた人は幸せだ。ただ、フツーの人は欲が強く、恵まれた「今」に気がつかないから、いつまでも幸せだと思わない。


西竹一に関する本
  乗馬の歴史―起源と馬術論の変遷
  馬術讀本
  国際馬事辞典(日-英-仏-独)
  硫黄島に死す (新潮文庫)
乗馬の歴史―起源と馬術論の変遷