人々に踏まれたい

穗積陳重

きょうは法学者で明治民法の生みの親 穗積陳重(ほづみ のぶしげ、幼名:邑次郎)の誕生日だ。
1855(安政2)年生誕〜1926(大正15)年逝去(70歳)。

伊予の国(愛媛県宇和島藩士で国学者の穗積重樹の次男として生まれた。代々国学者の家系であった。陳重は藩校であった明倫館に学んだ。16歳で藩の奨学生として上京し、大学南校(東京大学の前身)に学び、1876(明治9)年21歳の時、文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んだ。

10月ロンドン大学キングズ・カレッジへ入学、サー・ヘンリー・メインに学んだ。同年11月ミッドル・テンプル法学院へ入学。1878(明治11)年23歳の時、ミッドル・テンプルでの年一回の学力試験で最優秀の成績を収め、今で言う「奨学金」(何と当時のお金で550日本円、家が何軒も買えるほどの大金)を獲得、在英の同胞たちを大喜びさせた。
この「事件」は、当時の日本でも新聞などで大々的に報道された。東洋の小国からの留学生が並み居る俊才を乗り越えて第一優等学生栄誉金を獲得するなぞ余程の大事件だった。また陳重は、1879(明治12)年24歳でミッドル・テンプルを卒業し、バリスター・アト・ロー(法廷弁護士)の称号を受けた。
アジア出身の留学生としては、第一優等学生栄誉金、バリスターの称号ともに、初の栄誉だった。

1881(明治14)年26歳の時に帰国、翌1882(明治15)年 何と27歳で東京大学法学部講師、改称された東京大学の教授・法学部長に就任した。陳重の類い稀な才能にあわせて、明治政府の彼に対する期待の大きさがうかがわれる。

さらに陳重は33歳で、日本ではじめての法学博士となった。彼はフランス法が盛んであった日本法学に、イギリス法学、ドイツ法学を継受し、その後の日本法学に大きな影響を与えた。また、東京大学に法理学(法の本質や理念、また根拠や価値などを哲学的な方法等により原理的・根本的に研究する学問。法哲学)講座を開設した。特に彼の唱えた「法律進化論」は、日本の法典編纂の指導原理となった。

大日本帝国憲法施行直後の1891(明治24)年、来日中のロシア皇太子を一巡査が襲撃したいわゆる「大津事件」が勃発した時、郷里宇和島の大先輩で大審院長の児島惟謙(こじま いけん)から意見を求められ、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と犯人死刑論を非難、惟謙を激励し後に謝電が送られた。

1893(明治26)年38歳の時、法典調査会主査委員になり、創世期にあった日本の法学界に大きな影響を与えた。旧民法典を施行すべきか否かの法典論争においては、延期論を主張、同法典の延期後は、富井政章(とみい まさあき)、梅謙次郎(うめ けんじろう)とともに現行民法の起草にあたった。

東京大学教授として1912(明治45)年まで30年間務め、法学部の基礎を確立、「日本の民法の祖」「明治民法の生みの親」などといわれた。
著書に「法律進化論」「穂積陳重遺文集」(全4巻)「法窓夜話」などがある。

1890(明治23)年35歳より貴族院勅選議員、1915(大正4)年60歳のとき男爵、1916(大正5)年61歳で枢密顧問官、1925(大正14)年70歳のとき枢密院議長となった。帝国学士院第1部長、文政審議会委員などの要職にも就いた。

陳重は郷里に銅像の話が出たとき「銅像となり仰がれるより橋になり人々に踏まれたい」と言い、市内の川に「穂積橋」と名付けられた橋がかけられた。妻歌子(または宇多)は、明治の大実業家 渋沢栄一(1840年〜1931年)の長女。

穗積陳重は、法学者として日本の法学界に大きな貢献をした。イギリスでの快挙はすばらしく、またその異才を誇るでもなく、一生を「正しく謙虚に」生きた人のようだ。晩年の「穂積橋」からその謙虚さがうかがえる。

企業においても、優秀な人は少なからずいるものだが、その才能を鼻にかけるでもなく他の人と協力して仕事をこなしていく人は、百人に一人の得がたい存在だ。チームの能力を引き出し、いざというときには前面で困難に立ち向かう人は、会社にとって宝だ。そのような人をあるべき姿として、業務に取り組みたい。


穗積陳重の本
  法窓夜話 (岩波文庫)
  復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)
  相続法原理講義 (復刻叢書―法律学篇)
  民法起草者 穂積陳重論 (日本比較法研究所研究叢書)
  明治一法学者の出発―穂積陳重をめぐって