心底からのリベラリスト

今和次郎

きょうは「考現学」を提唱した民俗学者社会運動家 今和次郎(こん わじろう)の誕生日だ。
1888(明治21)年生誕〜1973(昭和48)年逝去(85歳)。

青森県弘前市に生まれた。1906(明治39)年 東奥義塾中学を卒業。東京美術学校(現 東京芸術大学美術学部)に入学した。1912(明治45)年24歳の時、東京美術学校図案科を卒業。在学中に岡田信一郎の薦めで早稲田大学建築学科助手に採用されたが、仕事内容は小間物係だった。

1917(大正6)年29歳の時 早稲田大学佐藤功一教授の誘いで、古民家保存を目的とする「白茅会」に参加。農村住宅・民家に関するさまざまな委託調査研究に従事した。当時の農山漁村・積雪地方の住宅に精通し、住宅の欠点・改善事項の調査研究、標準住宅の設計、指導を行なった。
この頃から柳田國男の調査に同行するようになった。民家の建築の研究を始めるが、日本民俗学の主流とは異なるものだった。1918(大正7)年 民家調査の最初の報告書「民家図集 第一集 埼玉県」を白茅会から出版。その後、柳田國男に「破門」されたようだ。

1920(大正9)年32歳で早稲田大学の教授になった。1922(大正11)年 朝鮮総督府の委嘱により朝鮮半島で民俗調査に従事した。
全国の民家調査を行い、その成果をまとめ、1922(大正11)年 「日本の民家」を出版した。

1923(大正12)年9月 関東大震災、10月、人並みはずれた好奇心で震災後の銀座に「バラック装飾社」を興した。関東大震災後の東京の焼け跡を、ノートと鉛筆を手に地下足袋を履いたジャンパー姿で、がらくたのようなものを探したりスケッチしながら歩いた。バラックの内部や、その周囲に散らばったり、時にはものの見事に整理されていた勝手道具などを丹念にスケッチした。

1925(大正14)年 初の「考現学」調査とも言える「銀座街風俗」を行ない、「婦人公論」に発表した。
1927(昭和2)年39歳の時 新宿紀伊国屋で「しらべもの(考現学)展覧会」を行った。その宣伝チラシには、“丸ビル、モダンガール散歩コース”から“東京長屋便所汲み取り口”に至まで53の項目が列記されていた。

最後に付記として「この展覧会はここ三年間私達のやった仕事の展示です。かかる仕事を私達は仮に『考現学』と称して、考古学でやる方法を現代に適用してみているのです。すなわち現在眼前に見るいろいろなものを記録し、そのしらべの方法をどうやったらいいかについて努めている次第です」。
これこそが日本発祥の学問「考現学」(モデルノロジー)の誕生宣言だった。

1930(昭和5)年42歳の時 名著「モデルノロジオ」を出版した。和次郎の「考現学」という発想は後にも大きな影響を与えており、赤瀬川源平藤森照信らの「路上観察学会」の先駆者ともいえるもので、民俗学、民家研究、服装研究で業績を為し、建築学生活学、意匠研究などでも活躍した。

また、和次郎は東京美術学校出身の画家でもあった。弟の今純三も銅版画家。早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、1959(昭和34)年60歳で退職するまで47年にわたって早稲田大学で教鞭をとった。

和次郎の活動範囲は実に広範多岐にわたり、独創的で、アカデミズムの枠にとらわれぬ多彩な業績をのこした。住宅、都市衛生、生活改善などの政府委員を務める一方、日本生活学会会長、日本建築士会会長などを歴任、今日の生活文化、農村文化、社会調査分析などに及ぼした影響は計り知れないものがある。

今和次郎は、生涯をイガグリ頭にジャンパーとズック靴で通し、授業はもちろん、入学式や卒業式にもガウンの下はジャンパーだった。勲二等の内示があった時にはモーニングを着用しなくてはならぬと聞き、ジャンパー姿でも貰える勲四等にしてくれと頼んだ話は有名。心底からのリベラリストであり、フィールドの人でもあった。
寺田寅彦早川徳次と並ぶ「銀座の三奇人」の一人。

企業においても、決して人にこびるようなことはせず、マイペースで自分の納得する仕事をこつこつと確実にこなすような人がいるものだ。必ずしも人事評価は良くないかもしれないが、このような飄々とした人がいてこそ企業全体のバランスが保たれることを理解しなくてはいけない。


今和次郎の本
  考現学入門 (ちくま文庫)
  新版大東京案内〈上〉 (ちくま学芸文庫)(下)
  見聞野帖―今和次郎・民家
  野暮天先生講義録
  今和次郎―その考現学
今和次郎―その考現学野暮天先生講義録新版大東京案内〈上〉 (ちくま学芸文庫)考現学入門 (ちくま文庫)