苦渋の決断だった

白瀬矗

きょうは陸軍中尉で日本人初の南極探検隊隊長 白瀬矗(しらせ のぶ、幼名:知教 ちきょう)の誕生日だ。
1861(文久元)年生誕〜1946(昭和21)年逝去(85歳)。

秋田県金浦村(現 金浦町)に400年以上歴史のある浄土真宗浄蓮寺の住職 白瀬知道・マキエの長男として生まれた。生まれついての暴れん坊で、何事にも物怖じしない冒険心に富んだ少年だった。10歳の時 キツネ狩りをして左の肩に噛みつかれ、12歳の時 オオカミ退治をして大怪我をし、13歳の時 観音堂の屋根のてっぺんから墜落して気絶したりするような日々を送っていた。

8歳のとき、近くの蘭学に通じた佐々木節斎という医師が開いていた寺子屋に入門し、そこで読み書き、ソロバンだけではなく、西洋の新しい知識を習った。節斎は、子どもたちによく、コロンブスの新大陸発見、マゼランの世界一周などの話をした。白瀬はその環境もあってか、やがて、真剣に北極探検の夢を描くようになった。
白瀬の夢を知った節斎は、北極探検のための“五つの戒め”を彼に話している。一、酒を飲むべからず。二、煙草を吸うべからず。三、茶を飲むべからず。四、湯を飲むべからず。五、寒中でも火にあたるべからず。白瀬は死ぬまでこの戒めを実践し続けた。少年の時から、彼は北極探検を真剣に考えていた。
また彼は、北極探検の志を遂げるには軍人になるのがいちばんだと思っていた。

1879(明治12)年18歳の時、幼名の知教を「矗」に改名した。
改名の理由を、「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐに進むべきものである。初心を貫くには、普通の人の二倍も三倍も頑張らねばならぬ。だから、普通の人なら直の字が一つでよかろうけれど、わしはバカがつくような人間だし、何事も目的は大きく持つ方がよい。そこでわしは直の字を三つもつけたのだ」

1879(明治12)年7月に僧侶となるため上京するが、二ヶ月後に軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校した。1881(明治14)年20歳の時、教導団を卒業、伍長として仙台に赴任した。1887(明治20)年26歳で同地の海産問屋の娘 やすと結婚した。

1893(明治26)年32歳の時、予備役となり、北極探検への準備として越冬経験を積むために、千島探検隊に加わった。隊長は幸田露伴の兄 郡司成忠大尉だった。同年8月31日に占守島に到着。1896(明治29)年まで同島にとどまった。
越冬中、6名のうち3名がビタミン不足による壊血病で死亡するなど、決して成功とは言い難い結果となったが、この経験が後の南極探検に大いに役立った。

1909(明治42)年48歳の時、アメリカの探検家ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、北極探検を断念、目標を南極点到達とした。
しかし、その年の秋、イギリスのスコット大佐が南極探検計画を発表。翌年6月に出発するというニュースが入り、白瀬は、急遽、翌年1月の帝国議会に探検の費用補助を建議、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義捐金に依った。

政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。結局、新聞各紙に経費の募金記事と隊員の募集記事を載せてもらい、1910(明治43)年7月5日に神田で南極探検発表演説会を開催、当日南極探検後援会が組織され、会長には大隈重信が就任した。南極探検に使用した船は、郡司大尉が千島遠征に使用した機帆船「第二報効丸」を買い取り、改造して「開南丸」と命名された。

1910(明治43)年11月28日、隊員27人は、5万人が見送るなか「開南丸」で東京芝浦埠頭を出港した。この年、南極点到達は、白瀬隊、イギリスのスコット隊、ノルウェーアムンゼン隊の三つ巴の競争になった。

アムンゼン隊は1911年10月15日に南極のベースキャンプを出発、12月14日に南極点一番乗りを達成し、極点にノルウェー国旗を掲揚、翌年1月25日にベースキャンプに無事帰投した。対するスコット隊の出発は11月1日、2週間の出遅れは致命的で、南極点到達はアムンゼンに遅れること35日後の1912年1月18日、その帰路に全員が遭難死亡した。

白瀬隊は、1911(明治44)年の2月8日ニュージーランドのウエリントン港に入港。2月11日に南極に向け同港を出港したが、氷に阻まれ立往生の危険が増したため、オーストラリアのシドニーに引き返し5月1日に入港した。
その挫折と資金集めの困難にもかかわらず、大隈は各方面に折衝し、白瀬隊を電報で励まし、再度の突入を指示した。

シドニーに半年間滞在後、再び南極を目指し11月19日出港。1912(明治45)年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名した。同地は上陸、探検に不向きであったためホエール湾に移動。1月20日に極地に向け出発した。

南極で越冬したアムンゼン、スコット両隊に比べ、シドニーまで一時撤退を余儀なくされた白瀬隊のハンディは大きく、開南丸がホエール湾に上陸したのは、アムンゼンが南極点に到達してから既に1ヶ月が過ぎた後のことだった。このときホエール湾ではアムンゼン隊のフラム号が本隊の帰投を待っており、極点を目指した白瀬隊の開南丸とフラム号が互いに表敬訪問するなど交流を深めている。

白瀬隊の船は、わずか200トンあまりの木造船だった。アムンゼン隊から「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心されているが、この木造船で西経151度30分、南緯76度6分という他のニ隊を抜く地点までの回航に成功している。

白瀬隊は、白瀬以下5名の突進隊が2台の犬ゾリで南極点を目指したが、猛吹雪にはばまれ前進は困難を極め、装備・食糧の制約もあり、1月28日に極点到達を断念、南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、同地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。後の調査で、該当地点は大陸上ではなくロス棚氷の上であることが判明している。その後、白瀬隊は6月20日に58000kmにおよぶ航海のあと、一人の死傷者もなく全員無事に帰国した。

一番乗りはおろか極点到達すらも断念することとなり、白瀬としては苦渋の決断だったが、無謀な危険を冒さず一名の犠牲者も出すことなく全員無事に帰投できたことは (スコット隊の結末を見ても) 正しい判断であった。

ただし、全く犠牲が無かった訳ではなく、撤収時にブリザードに襲われ、ソリ引きの樺太犬の収容が間に合わず、28頭のうち20頭を置き去りした。白瀬はこのことを終生悔やみ、晩年、白瀬が仏前で毎日合掌した「物故者之霊」の中には「犬隊員」の名が含まれていた。

帰国した27人の隊員は提灯行列の大歓迎を受け、日本中が、その壮挙にわいた。白瀬、51歳での夢の実現だった。
しかし、南極探検で負った4万円(現在では約2億円)の借金を白瀬一人が背負い、その返済に終始する後半生となった。

白瀬は東京の自宅を売り、各地を転居しながら、日本各地からの依頼に応じ、南極で撮影した映画を持って探検の様子を講演して回った。最終的に白瀬は独力で借金を完済したのだが、2〜3年もすると講演依頼もなくなり、その後は南極探検以上に辛く厳しい晩年を故郷の金浦町ですごすことになった。

1946(昭和21)年、愛知県豊田市の二女宅で天寿を全うした。その老人のかつての偉業を知る者は誰も居らず、葬儀に訪れる弔問客も少ない、南極探検王の寂しい最期だった。
その功績をたたえ、南極観測船が「しらせ」と命名された。また、南極ロス海棚氷の東岸は白瀬海岸命名された。

白瀬矗は、自分の冒険心を満たすために一生をかけて南極に向かい、極点の直前で断念することになる。結果として、莫大な借金のために苦しい後半生を送ることになった。しかし、彼のなかには、自分なりにやり遂げたことへのお金では買えない満足感があったのではないか。

企業においても、大きなリスクを背負って困難なプロジェクトに挑戦する場合がある。それが失敗に終わったとしても、一人で莫大な借金を背負うことは無いし、それなりの満足感が得られるはずである。ならば、機会があれば受けて起つ選択をすべきだ。


白瀬矗 辞世の句
  「我れ無くも かならず探せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」


白瀬矗の本
  白瀬矗―私の南極探検記 (人間の記録 (61))
  白瀬中尉探検記―伝記・白瀬矗 (伝記叢書 (249))
  極―白瀬中尉南極探検記 (新潮文庫)
  やまとゆきはら―白瀬南極探検隊 (日本傑作絵本シリーズ)
  南極に立った樺太アイヌ―白瀬南極探検隊秘話 (ユーラシア・ブックレット)
やまとゆきはら―白瀬南極探検隊 (日本傑作絵本シリーズ)白瀬中尉探検記―伝記・白瀬矗 (伝記叢書 (249))白瀬矗―私の南極探検記 (人間の記録 (61))