反動が共感を呼ぶ

サトウハチロー

きょうは詩人で『ちいさい秋みつけた』を作詞した サトウハチロー(佐藤八郎)の誕生日だ。
1903(明治36)年生誕〜1973(昭和48)年逝去(70歳)。

東京市牛込(現 東京都新宿区)に作家の佐藤紅緑の長男として生まれた。やがて父親の佐藤紅緑は舞台女優 三笠万里子と同棲するようになり、父への反発から、落第3回、退校8回、勘当されたのが17回で、山手線内のほとんどの留置場に入れられたという伝説が残っている。(作家の佐藤愛子は三笠万里子の娘で、ハチローの異母妹)

中学の時だった。ある朝、ハチローが遊廓の二階に立って歯を磨いていたら、窓の下を通る担任の先生の姿が見えた。
「お早うございます、先生」とハチローは元気よく声をかけた。
ハチローはその日のうちに退校処分になってしまった。
感化院という少年矯正施設にも入り、その施設のあった小笠原諸島(小笠原島)で佐藤紅緑の弟子であった福士幸次郎に預けられ生活を共にし、影響を受けた。
1919(大正8)年16歳の時 福士幸次郎の紹介により西条八十に弟子入りし、童謡を作り始めた。

1926(大正15)年23歳のとき処女詩集『爪色の雨』を出版した。ベルエポック(古きよき時代)の雰囲気漂う昭和初期は、東京浅草・エノケン一座の座付き作家だった。トーキー揺籃期には映画主題歌の作詞をした。

1945(昭和20)年 第二次世界大戦後初めてとなる映画『そよかぜ』が公開されると、サトウハチローの作詞による挿入歌『リンゴの唄』は並木路子の歌により大流行し、戦後日本を象徴する歌となった。

1946(昭和21)年、ハチローの無軌道な生活を深い愛情で癒してくれ敬愛してやまなかった恩人 福士幸次郎が亡くなった。翌年には長年の放蕩に愛想づかしをした先妻 くらの子供3人を育ててくれた妻 るり子が急死した。また1949(昭和24)年46歳の時、反発と尊敬の対象であった父 紅緑も世を去った。

その後のハチローは、若い頃の暴走を糧として多くの作品を生み出していった。
1953(昭和28)年50歳のとき童謡集『叱られ坊主』を出版し、翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。以後は童謡の詩作に専念し、1955(昭和30)年52歳の時『ちいさい秋みつけた』を作詞した。

『ちいさい秋みつけた』は、NHK放送記念祭で発表され、1962(昭和37)年にボニージャックスの歌でレコーディング、同年 日本レコード大賞童謡賞を受賞した。東京文京区弥生にある旧宅の庭には、はぜの老木があり、今でも秋になるとみごとに紅葉する。歌詞の3番に出てくるはぜは、これを歌ったものらしいが、この詞を実際に作ったのは彼の女弟子だったという説もある。

1957(昭和32)年54歳の時、「木曜会」を結成し新人を指導、詩・童謡の月刊誌「木曜手帖」を創刊した。
日本作詞家協会会長、日本童謡協会会長などを歴任した。母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られる反面、私生活は放蕩、奇行が多い一生だった。(佐藤愛子の長編小説『血脈』に詳しい)

ハチローが自分の詞の作曲に、必ず中田喜直を指名したのは有名。代表作は童謡に『ちいさい秋みつけた』『かわいいかくれんぼ』『うれしいひなまつり』『わらいかわせみに話すなよ』『とんとんともだち』など。歌謡曲などに『リンゴの歌』『長崎の鐘』『うちの女房にゃ髭がある』など。他にも校歌、CMソングなど多数。

サトウハチローは、とんでもない不良だった少年期をスタートに、自由奔放な一生を送っているが、本当は父とか母の愛がもっともっと欲しかったのだろう。その反動が共感を呼ぶ詩となっているのではないか。

企業においても、大声を出したり強引なやり方をする人がいるが、それは自分の弱さを見られたくないという反動が出ている場合が多い。そのような人に限って、うまくいかなかった場合の落ち込み方がひどいので、気をつけて対処する必要がある。


サトウハチローのことば
  「ふたりでみるとすべてのものは美しくみえる」


サトウハチローのビデオ
  母に捧ぐ「おかあさん」?サトウハチロー自 [VHS]


サトウハチローの本
  サトウハチロー詩集 (ハルキ文庫)
  おかあさん―詩集 (講談社青い鳥文庫 35-1)
  詩集 ありがとう
  サトウハチロー童謡集 (日本の童謡)
  サトウハチロー―落第坊主 (人間の記録 (91))
  ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝
  サトウハチローものがたり (ジュニア・ノンフィクション)
  血脈 (上) (文春文庫)(中)(下)
  サトウハチローのこころ (ことばの花束)
ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝サトウハチロー―落第坊主 (人間の記録 (91))詩集 ありがとうサトウハチロー詩集 (ハルキ文庫)