真に恐るべき者なり

石井露月

きょうは俳人で日本派俳壇の巨匠 石井露月(いしい ろげつ、本名:祐治)の誕生日だ。
1873(明治6)年生誕〜1928(昭和3)年逝去(55歳)。

秋田県戸米川村に生まれる。少年時代に父を失い、祖父母の下で育てられた。1888(明治21)年 秋田県尋常中学校(現 秋田高校)入学。中学校時代、教師の漢詩人 江幡澹園(えばた たんえん)に漢詩を学び、その影響で文学を好み、俳句を作るようになった。

1891(明治24)年 脚気のため秋田中学を中途退学して小学校の教員になったが、1893(明治26)年20歳の時に文学を志し上京した。以後、脚気のため6回上京・帰郷を繰り返した。

上京後、しばらくは浅草の小さな病院で書生として働いた。1894(明治27)年、早稲田の東京専門学校に通っている友人が、坪内逍遥を訪ねる事を進めた。露月は牛込にあった逍遥の家を訪ねて、文学者になりたいと言った。
逍遥は、田舎出の素朴な青年に、「文学者として立つには、才能と資産がなければならない。みだりに文学者を目指すより何か実業に就きなさい」と言った。
露月は悄然として逍遥の家を辞したが、友人は「自分の友人に俳人正岡子規の従弟に当たる藤野古白(こはく)がいるから、それに紹介してやる」と言った。
藤野の紹介で1894(明治27)年、上野駅の北方に子規を訪ねた。子規はこの朴訥(ぼくとつ:無骨で飾り気が無い)な青年が気に入って、露月を新聞「小日本」の記者に入れてやった。

彼は少年の頃から露月という号を持っていたので、その号で子規の下で俳句を作った。やがて露月はまだ高浜虚子河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)が学生だった頃、佐藤紅緑と並んで有力な子規門となった。

子規は碧梧桐や虚子についで露月をあげ「異彩を放ちたる者は露月とす。露月喜んで漢語を用ふれども用語自ら異なり」とし、「その句は縦横奔放、真に恐るべき者なり」と評し、その個性を「警抜(けいばつ:すぐれてぬきんでていること)」の2字で評した。

しかし露月は文学者として進む事の難しさを考え、生業として医者になる志を立てた。また、毎年 夏になると脚気に侵されて働けなくなった。そこで1895(明治28)年、喀血し療養先の松山から上京してきた子規にその考えを述べた。
子規は露月を高く買っていたので不満であったが止める事は出来なかった。露月は1895(明治28)年の末から郷里に帰って医師試験の準備の為に済生学舎に通い熱心に勉強した。

そして1896(明治29)年の秋の初め、露月は受験の為に上京した。上京中は子規を中心とする句会にしばしば出席した。そして10月、医師の前期試験に合格し、1898(明治31)年4月、後期試験にも合格した。その後は郷里の秋田に帰り、一時、京都の東山病院の医員として勤務した事もあったが、1899(明治32)年10月に秋田で医院を開業した。

1901(明治34)年 菅原コトと結婚した。
医を専にしながらも山林を買って植林に尽くしたり、村民の生活向上・夜学会を通じての青年教育・女米鬼文庫を設立するなど、村政の刷新にも多大な業績を残した。20数年にわたって村議もつとめた。

1900(明治33)年27歳の時、島田五空、佐々木北涯らと子規賛助の下に俳誌「俳星」を刊行した。露月は、ひとり秋田にあっても志を捨てず、句境を深めた俳人で、主に秋田を中心に東北地方にかけて日本派の俳句を広めていった。正岡子規門下で高浜虚子河東碧梧桐佐藤紅緑とともに、「子規門四天王」と称された。

石井露月は、類まれなる俳句の才能を持ちながら、生業として医師の道を選ぶが、仕事として俳句の世界にどっぷりと浸かるよりも、謙虚な姿勢で創作できるのではないだろうか。それにしても、俳句、医業のほかにも郷土のために数々の貢献をしているところが偉人たるところだ。

企業においても、本来の業務ですばらしい成果をあげながら、趣味などの遊びにも長けた人がいる。どうしてあんなにもできるのだろうと思うこともあるが、案外片方を取り去るとすべてがうまくいかなくなるのかもしれない。


石井露月の作品
  「水鳥の浮くも潜るも浄土かな」
  「短日の風争ふや四派の松」
  「露涼し夜と別ろ花の枝」
  「秋立つか雲の音聞け山の上」
  「二三尺波を離れて秋の蝶」
  「雪山はうしろに聳(そび)ゆ花御堂」


石井露月に関する本
  日本文壇史4 硯友社と一葉の時代 (講談社文芸文庫)
  俳句大観
日本文壇史4 硯友社と一葉の時代 (講談社文芸文庫)