哲学をもたない哲学者

ラッセル

きょうは英国の哲学者、数学者で近代論理学の祖 バートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell)の誕生日だ。1872(明治5)年生誕〜1970(昭和45)年逝去(97歳)。

イギリスの名門ラッセル家の次男として生まれた。1874年2歳のとき母と姉がジフテリアで死亡。4歳の時には父も亡くなった。その後、ロンドン郊外の父方の祖父母の下で育てられた。祖父は第6代ベッドフォード公爵の三男 初代ラッセル伯爵で、2度英国首相になっている。

5歳の頃から1年半 幼稚園に通った後は、祖母の方針で、学校へは行かず、ドイツ人やスイス人家庭教師によって教育を受けた。ケンブリッジ大学に入り、数学、哲学を学んだ。初めは数学者として出発し、A・ホワイトヘッドと共著で「数学の諸原理」「プリンキピア・マテマティカ」を著わし、のちの論理学に多大な影響を与えた。
以後、哲学の研究に入りイギリス経験論に立った認識論 (マッハ主義、新実在論 ) を展開するが、ここでも数学の研究を通して得られた論理学の成果を取り入れた。近世の科学の発展を支えたのは人間の論理する頭脳であるが、論理の仕組みは漠然と使用されていた。ラッセルらはこの論理という仕組み自体に科学のメスを入れた。論理の働きを記号によって表現するので「記号論理学」と呼ばれる。

なお、現在、論理学は更に研究が進んでいるが、量子論理学やラッセルの第二論理学については現在ほとんど研究者がいない。前者は難解すぎるし、後者は理解する人自体が少ないようだ。

第1次世界大戦が始まると、平和運動に従い、1918年46歳のとき、良心的兵役拒否者としてブリクストン監獄に6ヶ月間投獄された。
しかし兄フランクの努力等により、絨毯が敷きつめられた広い特別室で、机・椅子・ベット付で面会が許され、特別に午後10時消灯。日課は、4時間の哲学に関する著述、4時間の哲学関係の読書、4時間の一般的読書だった。

1920年10月から翌年7月まで北京大学客員教授を務めた帰途、1921年(大正10年)7月17日〜30日、雑誌「改造」の招聘で日本を訪れた。第1次大戦中の反戦活動のためケンブリッジの教職を追われ投獄もされた人物として、大正デモクラットたちの共感を得、来日前後にラッセルブームが巻き起こされた。
しかしラッセルの方は、中国滞在を楽しみ中国文化を全面的に賞賛したのとは対照的に、戦間期国際社会の危険分子として日本を警戒し、滞日中に接した日本人にも概して悪い印象を抱いた。

第2次世界大戦末期には核爆弾の先制使用を主張したが、終戦後は反核主義者に転向しアインシュタインとの共同宣言に到った。
原水爆の出現によって人類が滅びることを心配し、「原水爆禁止運動」を積極的に繰り広げ、また「世界連邦」の創設をとなえた。ビキニの第五福竜丸事件以後は、反核運動の象徴的拠点としての日本に期待を寄せ、長崎大学の「ラッセル平和財団日本資料センター」等を通じ日本の反核運動家と深い交流を保った。

1967年にはベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁くため、国際法廷を開くよう訴えた。人間の幸福を増進するため「教育論」を書き、実験学校(フリー・スクール)を開いたこともある。
英国の哲学者ウッドは「哲学をもたない哲学者、しかしすべての哲学をもつ哲学者」と評している。

ラッセルは貴族の家系に生まれ、特別教育を受け、数学者、哲学者としてすばらしい能力を発揮するが、のちには平和運動家に転進し世界を舞台に活躍している。貴族の地位や資産家としての力を人類のために有意義に使った人である。

企業においても、創業者の親族であったり大会社の子息や裕福な家の人が社員の場合があるが、そうした条件を取り去るわけにはいかない。人一倍謙虚な姿勢でその恵まれた条件をうまく利用すれば、一般社員に受け入れられるし、将来の地位へ就きやすくなるのではないか。


ラッセルのことば
  「米国では法律も慣習も同じように、その基準を未婚婦人の夢に置いている 」
  「どんなことも、これでいいと思ってはいけない」
  「道徳律はつねに変化している」
  「将来の戦争は勝利に終わるのではなく相互の全滅に終わる」


ラッセルの本
  哲学入門 (ちくま学芸文庫)
  西洋哲学史 1―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 (1)〜3
  原子力時代に生きる―英和対訳
  西欧の知恵 (1) (アトム現代英文双書 (808))
  ラッセル結婚論 (岩波文庫)
  ラッセル論説選 (研究社小英文叢書 (155))
  権力―その歴史と心理
  私の哲学の発展 (みすずライブラリー)
  自伝的回想
自伝的回想私の哲学の発展 (みすずライブラリー)ラッセル結婚論 (岩波文庫)哲学入門 (ちくま学芸文庫)