流れを先取りした気分

淺田宗伯

きょうは浅田飴を創製した明治漢方最後の巨頭 淺田宗伯(あさだ そうはく、幼名:直民、字:識此、号:栗園)の誕生日だ。
1815(文化12)年生誕〜1894(明治27)年逝去(78歳)。

信州筑摩郡栗林村(現 長野県松本市島立)に生まれた。祖父東斎、父済庵は医家として業を成している。宗伯は15歳の頃より自ら志を立て、秘かに大望を抱くようになり、高遠藩の藩医中村仲棕の門に入った。中村門下に居ること一年余で京都に上り、中西深斎の塾で古方(こほう:漢方の古医法、傷寒論など)を学んだ。その傍ら、経書を猪飼敬所(いがい けいしょ)に、史学・儒教頼山陽に学んだ。

京都に在って勉学すること4年、1836(天保7)年21歳の時、江戸に下り医業を開いた。翌年4月、父の死去で一旦帰郷後、再度東上、江戸医界の三大巨匠といわれた多紀元堅、小島学古、喜多村直寛にめぐりあい、栄光への階段を一歩一歩と昇りはじめた。
1855(安政2)年40歳のとき幕府の御目見得医師となり、1861(文久元)年 将軍 家茂に謁見し、徴士(ちょうし:政府に登用された藩士・庶民)の列に加えられた。1865(慶応元)年50歳のときフランス公使レオン・ロッシュの難症を治し、医名は海外にまで響き渡った。翌年、将軍 昭徳の病気を診察、法眼(ほうげん:中世以後、僧に準じて医師・絵師・連歌師などに与えられた称号)の位を授けられた。

1871(明治4)年56歳で東宮待医を辞して、牛込で医業を開いた。最後の徳川医師といわれた様に死ぬまで「医は仁術」を貫いた人で、毎日の患者数は数百人に及び、その半数は施療(せりょう:貧しい病人などを無料で治療すること)患者であった。薬室名は「誤らしむること勿(なか)れ」より採って、「勿誤薬室(ぶつごやくしつ)」と名づけている。

明治に入り、1879(明治12)年 宗伯64歳の時、明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう:後の大正天皇)が生後間もなく全身痙攣をくり返し、危篤の状態に陥った。国を挙げて、そのご快復を祈っているとき、宗伯の臨機応変にして大胆な治療によって見事に危篤状態を脱した。宗伯は、日本の国体を救う大功労者となった。宗伯の漢方治療がなかったら大正時代はなかったかもしれない。
1881(明治14)年、漢方存続運動の結社「温知社」の二代目社主となった。

江戸最後の国手(こくしゅ:名医)といわれた宗伯は日本漢方の集大成ともいうべき考証派という流派の医師で、時運に入れられなかった漢方医学の再興のため努力を傾注した。又、「浅田流漢方」と呼ばれる彼独自の漢方処方は、現在も漢方の専門家に受け継がれている。

当時の医学、儒学各方面の大家たちはその多彩な学殖を絶賛して、「栗園(りつえん:宗伯)の前に栗園なく、栗園の後に栗園なし」と賛辞を呈した。
今も残る「咳声のどに浅田飴」の「浅田飴」は彼の考案作で同郷の人物に伝授し、浅田宗伯の功績にちなんで「浅田飴」と命名された。

宗伯の学殖の広大・多彩さはその文章、詩、書、いずれもすばらしく、単なる医師ではなく国を治す国医であり、史学者であり、文人であり、思想家でもあった。著述の膨大さは、他に類をみない。その数は80種類200余巻になるといわれる。『勿誤方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』などは代表作である。

浅田宗伯は、漢方で名を成した人だが、西洋医学を嫌っていたようだ。そして西洋医学が台頭してくる中で、漢方の再興のために努力している。最近では漢方が見直されてきているが、いまだに漢方と西洋医学は二分されたままになっているのは、客観的に見れば正常な姿ではない。

企業においても、経営手法などで横文字の新しい手法が話題になると、すぐに飛びつき時代の流れを先取りした気分で導入するのだが、いつの間にか立ち消えになってしまっていることがある。企業経営の基本はそんなに変わるものではないし、それを支える人の心もそれほど変化するものではない。基本に忠実に、粘り強く、継続することが、いちばん確実な企業経営なのではないか。


淺田宗伯の本
  浅田宗伯書簡集
  方函口訣