良心と勇気に基づく発言

サハロフ

きょうはソ連の物理学者で「水爆の父」 アンドレイ・サハロフ(Andrei Dmitrievich Sakharov)の誕生日だ。1921(大正10)年生誕〜1989(昭和64)年逝去(68歳)。

モスクワに生まれた。1942年モスクワ大学を卒業。独ソ戦のため、トルクメン共和国(現在のトルクメニスタン)のアシハバードに疎開した。その後ウリヤノフスクに移り、研究生活に入った。1945年24歳のときモスクワに戻り、FIAN(ソ連科学アカデミー物理学研究所)に入って、理論部門で研究生活を送った。戦後、宇宙線の研究に着手し、1947年26歳のとき物理学博士号を授与された。

第二次世界大戦末期、アメリカは近い将来戦争をせざるを得なくなるであろう相手としてソ連を見ていた。そのころ原爆を完成させたアメリカは、ソ連に対する示威行動の意味を込めて、この超強力な兵器を戦争中の日本に落とした。広島・長崎の惨状を見たソ連は、自分たちも同じ武器を開発しなければならないと考えた。
そこで国内一流の科学者たちが集められ、原爆の製造の国家的プロジェクトがスタートした。サハロフも1948年からこれに参加し、やがて中心的存在の一人になっていった。そして1949年ソ連は原爆の実験に成功した。アメリカがこれに対抗して水爆の開発を始めるとソ連もすぐ同じことを始め、1952年にアメリカが水爆の基礎実験に成功すると、ソ連も1953年に本格的水爆の実験に成功した。

この開発競争により、アメリカ・ソ連の両国はお互いに、万一戦争をすることになったら、両国ともに、とんでもない被害が出ることを認識することになり、逆に戦争の危険は去り、冷戦が始まった。
サハロフは水爆開発の成功という功績により1953年32歳の若さで科学アカデミー正会員に選出され社会主義労働英雄の称号を得た。

初めての水爆実験が成功した時、サハロフはその実験場を厳しい顔で見つめた。水爆の威力は彼が想像していたものよりずっと大きく、放射能汚染、特に大気汚染が懸念された。そして彼は、こういう兵器を人類は使ってはいけないし、作ってもいけない、という思いに到達した。

彼は自らの良心に基づいて、1958年37歳頃から、一転して原水爆に反対する運動を始めた。そして核実験の放射能の影響を憂慮し、核実験の中止をソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフに進言した。結果的に1963年の部分的核実験停止条約締結に尽力した。

この頃から宇宙論に関する論文を発表し始めた。1968年47歳の時「進歩、平和共存、知的自由に関する考察」を発表したことにより、彼は軍事研究から遠ざけられた。更には1970年49歳の時には「ソ連人権委員会」を設立。政府による人権抑圧に対しても戦うようになった。

1972年51歳の時に、エレーナ・ボンネルと結婚した。
彼の活動の功績に対して、1975年54歳の時ノーベル平和賞が贈られた。しかし、ソ連国内では、受賞が批判の対象となり、批判キャンペーンが党のイニシアティブで起こされた。彼は1980年59歳の時ソ連アフガニスタン侵攻に抗議したため、当局に連行され、レオニード・ブレジネフ最高会議幹部会議長命令によって一切の栄誉は剥奪され、ゴーリキー市に流刑された。

流刑の身のサハロフは、1981年義理の息子の婚約者の出国を要求、1984年にはエレーナ・ボンネル夫人の病気治療のための出国を要求しハンガーストライキによる抵抗を続けた。1986年ミハイル・ゴルバチョフからの電話によって流刑が解除され、モスクワに帰った。

以後、ペレストロイカの進展を支持し、ソ連人民代議員大会が創設されると、1989年68歳のとき科学アカデミーから人民代議員に選出された。そして人民代議員大会では、急進改革派に属し、アフガニスタン侵攻を批判するなど良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、「ペレストロイカの父」と称された。

アンドレイ・サハロフは、原水爆の開発に成功するが、自らの良心に基づいて反対の立場をとるようになった。これはこの種の開発にかかわった技術者に共通するところだ。そして同様に開発後の平和運動が評価されている。しかし、当初から開発にはかかわらないと固辞した技術者もいるはずで、この人こそ評価されるべき優れた人である。

企業においても、会社方針とかでやらざるを得ない法律スレスレの業務があるかもしれないが、最近ではコンプライアンス法令遵守)の考え方がとり入れられているのはいいことだ。しかし、これにしても、もう少し考え方を進歩させ、モラルとか、良心、理性のレベルで考えたいものだ。

ペレストロイカ旧ソ連の末期にゴルバチョフがすすめた改革。ロシア語で「改革」「立て直し」の意味。
旧ソ連では、共産党の一党支配と中央から指令をだして動かす中央集権的な経済の体制が、非能率や技術のおくれを生み、無気力・無関心な労働者が満ち溢れていた。
1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフは、翌年ペレストロイカを打ち出し、深刻な経済不振を打破し、民主化を進めていこうとする政策を押し進めていった。
(1)情報の公開
(2)議会の民主化
(3)市場原理のとりいれ
(4)アメリカ合衆国との協調・軍縮など
ゴルバチョフは言った。「経済政策が成功するかどうか、どのようなプロセスを通って進められるのか、まったく予想がつかない。しかしながら、ペレストロイカは、10年先、20年先、いや100年先をにらんだ息の長い大計画である。確かに失敗するかもしれない。だが、失敗を恐れていてはいけない。何もしないより、失敗を修正しながらやっていくほうがいいのである」
この政策は、東ヨーロッパの民主化に勇気をあたえ、冷戦の終結をも実現した。しかし、ペレストロイカの理論と現実とはなかなか一致しない。活性化が遅々として進まないのは、官僚層の保守的傾向による。そして国内では経済が混乱し、民族紛争に火をつけて、1991年にはソ連の解体をもたらした。



サハロフの最期のことば
  「明日は戦いだ」


サハロフの本
  サハロフ回想録〈上〉水爆開発の秘密 (中公文庫BIBLIO20世紀)(下)
  水爆開発の秘密 (サハロフ回想録)
  ペレストロイカの父として (サハロフ回想録)
  娘たちと母たちと―サハロフ夫人回想録
  サハロフ博士と共に―ボンネル夫人回想録
サハロフ回想録〈上〉水爆開発の秘密 (中公文庫BIBLIO20世紀)