強引におし進めた反動

島秀雄

きょうは新幹線の父と言われた国鉄の鉄道技師 島秀雄(しま ひでお)の誕生日だ。1901(明治34)年生誕〜1998(平成10)年逝去(97歳)。

大阪市に父 島安次郎・母 順の長男として生まれた。父 安次郎は関西鉄道で高性能機関車の開発や旅客サービスの改善を進めた人物で、同社の国有化によって鉄道院入りし、技術幹部として蒸気機関車等の開発に手腕をふるいつつ、当時鉄道院の若手官僚であった十河信二らと広軌化を目論んだ。
しかし、当時の政界は利権重視の地方ローカル線延伸を優先し、幹線の改軌による輸送力向上という安次郎らの主張は容れられなかった。

島秀雄はこのような状況を間近に見つつ、東京新橋の市立桜川小学校から東京府立四中、一高理科乙類を経て、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。
父親の薫陶を受け、鉄道省に入省した。
1920(大正9)年代から1930(昭和5)年代にかけて、島が設計に携わった蒸気機関車には、C53型やC54型のような失敗作もあったが、「デゴイチ」ことD51型など、信頼性の高い堅実な機関車を数多く送り出した。
蒸気機関車に関する限り、島の設計は、海外技術の剽窃(ひょうせつ:他人のものを自分のものとして発表すること)的引用に過ぎないという批判もある。

1930(昭和5)年 設計主任となり、蒸気機関車や電車、気動車等の開発に携わった。日本の狭軌鉄道における蒸気機関車の限界と、電車・気動車に代表される「分散動力方式」の将来性を見抜き、いち早く気動車の開発を推進した。

1937(昭和12)年には長期外遊し、世界各国の鉄道事情を研究した。1930年代末期から進められた「戦前版新幹線」とも言うべき「弾丸列車計画」でも、電気動力を本命として計画を立案したが、太平洋戦争激化によって頓挫、島は「戦時型鉄道車両」の設計を手がけることになった。

戦後の混乱した情勢の中で鉄道事故が続発、1951(昭和26)年には大惨事として知られる桜木町事故が起き、島は責任を取って国鉄車両局長の職を辞した。
下野してからは一時、鉄道車両台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めた。

1955(昭和30)年54歳の時、十河信二国鉄総裁就任に際し、最適任の技術者として島に復帰を要請。島は国鉄技師長に就任、動力近代化推進の先頭に立ち、ひいては純国産技術による高速鉄道「新幹線計画」に携わった。
この二人によって、「新幹線」は実現したと言われるが、新幹線開通の前年に十河総裁が「新幹線予算不足の責任」を問われ「再々任されず」辞任した。

島も後を追って、1963(昭和38)年62歳で国鉄を退職、住友金属工業の顧問となった。1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線の「出発式」に、国鉄は十河と島を招待しなかった。島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見た。

1969(昭和44)から1977(昭和52)年 宇宙開発事業団(現在は統合し宇宙航空研究開発機構)の初代理事長を務め、初期におけるわが国の宇宙開発を指導した。その他、科学技術庁顧問、海外鉄道技術協力協会最高技術顧問も務めた。

島秀雄は、いろんな失敗や挫折もあるが、チャレンジ精神も旺盛で、新幹線と言う巨大プロジェクトを成功させる原動力になっている。最後は十河総裁の辞任にともない、責任をとった形だが、強引におし進めた反動も少なからずあったのだろう。

企業においても、ほとんど完成間近になって疲れきったところを狙われ、仕上げの部分だけを他人に横取りされてしまうこともあるが、その人を恨んだりせずにおおらかな気持ちで譲るぐらいの人物になりたいものだ。とは言っても現実的にはむずかしいが、そうなろうと努力をしてみる価値があるのではないか。


島秀雄に関するDVD
  プロジェクトX 挑戦者たち Vol.5執念が生んだ新幹線 ― 老友90歳・飛行機が姿を変えた [DVD]
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島秀雄に関する本
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  新幹線をつくった男 島秀雄物語 (Lapita Books)
  プロジェクトX挑戦者たち―コミック版 執念が生んだ新幹線 (MISSY COMICS)
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  新幹線がなかったら (朝日文庫)
新幹線がなかったら (朝日文庫)The新幹線―知ってるつもりで意外に知らない凄い秘密 (別冊ベストカー)新幹線開発物語 (中公文庫―BIBLIO20世紀)新幹線をつくった男 島秀雄物語 (Lapita Books)