秒分の片時でも   

秋山真之

きょうは日本海軍きっての戦術家 秋山真之(あきやま さねゆき、幼名:淳五郎)の誕生日だ。
1868(明治元)年生誕〜1918(大正7)年逝去(49歳)。

伊予松山の中歩行町(現 愛媛県松山市大街道3丁目)に松山藩士 秋山久敬の五男として生まれた。実兄はのちに「日本騎兵の父」といわれた明治陸軍大将 秋山好古(よしふる)。
1883(明治16)年15歳で上京、兄 好古宅に寄寓(きぐう:仮の住まい)した。やがて松山中学校同級生で親友 正岡子規と神田に下宿した。子供の頃から文才を発揮していたが、この頃、正岡子規と、ともに筆で名を上げようと誓いあったようだ。
  雪の日に北の窓あけシシすれば あまりの寒さにチンコちぢまる
は、幼少の頃の作品とか。

正岡子規とともに大学予備門(現 東京大学教養学部)へ入学するが、官僚になることへの不満から中退し、当時、あまり知られていない海軍軍人の道を志した。
1886(明治19)年18歳の時、海軍兵学校に入学、抜群の成績で卒業まで首席を通した。級友に、のちに海軍中佐となり軍神といわれた廣瀬武夫がいた。
日清戦争を経て軍令部の駐米武官としてアメリカに留学、1898年のアメリカ・イスパニア(米・西:スペイン)戦争に遭遇し、それを緻密に分析した。そして、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究め、緻密なシステム思考で海軍有数の戦術家へと成長した。この留学で得た古今東西の膨大な戦略・戦術の知識経験が後の日本海海戦に大いに役立ち、その後の明治海軍に大きな影響を与えた。
この留学では小村壽太郎公使(後の外相)と懇意となった。

1904(明治37)年に始まった日露戦争では、中佐として連合艦隊司令長官 東郷平八郎聯合艦隊作戦参謀として活躍、日本海海戦では遠来のバルチック艦隊を迎え、秋山自ら作成した「皇国ノ興廃此一戦ニ在、各員一層奮励努力セヨ」との名文をZ旗に託し、これを旗艦 三笠に掲揚し、戦闘員の啓発に努めた。また伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」(東郷ターン)を秋山流に編み出し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。
東郷平八郎は、秋山を「智謀湧くがごとし」と称え、上官たちも彼の頭脳の優秀さには舌を巻き、ほとんどの作戦を彼に一任していた。

また、名文家としても名が高く、その名文は「秋山文学」とも言われている。「本日天気晴朗ナレド波高シ」という電文はあまりに有名。また、凱旋観艦式で東郷平八郎元帥が奉読した「勝って兜の緒を締めよ」で結語する「連合艦隊解散之辞」は当代きっての名文と評されている。米国のセオドア・ローズーベルト大統領はこの名文に感激し全米国艦隊にその英訳を配布したようだ。

日露戦争後は、海軍大学校教官、軍務局長などの要職を歴任し、常日頃から「海軍の主力戦闘は航空機と潜水艦の時代になる」と主張し、「アメリカと事を構えてはいけない」と言っていた。また、第一次世界大戦の観戦武官としてヨーロッパに渡りその戦いの勝敗を全て予想し的中させたという神業を残した。
しかし、真之は急激に体力が衰えていく、まるで、全ての叡智を戦いに使ったかのように。そして、自らが編み出した戦術により敵兵数万を殺した(なお、戦いによる日本の死者は百数十人)ことに深い悲しみを覚え、宗教・哲学に走り、その姿は「仙人」のようであったと言われている。

1917(大正6)年中将に昇格したが、翌年盲腸炎から腹膜炎を併発し死去した。
兄 好古は、真之の追悼会の席上、「弟 真之には、兄として誇るべきものは何もありません。が、しかし、ただひとつ、真之はたとえ秒分の片時でも、『お国のため』という観念を捨てなかったということです。このことだけははっきりと、兄として言い得ることです」と述べた。

秋山は海軍きっての戦術家として有名だが、科学的な知識に加え、人の心理を見抜いていたということだろう。そして、そのベースになっていたのが、「お国のため」という観念だった。
企業においても、他社に勝とうとするなら、業界や商品の知識は当然ながら、消費者をはじめとする人の心理がわからないといけない。そして、「会社のため」という気持ちを忘れてはいけない。


秋山真之の本
  秋山真之―伝説の名参謀 (PHP文庫)
  秋山真之―バルチック艦隊を撃破した天才参謀 (幻冬舎文庫)
  秋山真之―日本海大海戦の名参謀 (学研M文庫)
  知将 秋山真之 (徳間文庫)
  秋山真之のすべて
  秋山真之 (人物叢書)
  新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)〜(8)
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)秋山真之 (人物叢書)秋山真之―日本海大海戦の名参謀 (学研M文庫)秋山真之―伝説の名参謀 (PHP文庫)