正しくても敗北する   

滝川幸辰

きょうは明治の刑法学者 滝川幸辰(たきがわ ゆきとき)の誕生日だ。1891(明治24)年生誕〜1962(昭和37)年逝去(71歳)。

岡山市で生まれた。第三高等学校卒業後、京都帝国大学法科へ入学、1915(大正4)年、卒業。京都地方裁判所判事をへて、1918(大正7)年27歳で京大助教授となり、1922(大正11)年31歳の時、ドイツに留学した。1924(大正13)年帰国し、京大教授となった。多くの論文、著書を発表したが、それらはドイツ刑法学の影響の濃い、比較的自由主義的なものであった。

刑法学者としては旧派の古典学派に属し、「刑罰の本質は応報、内容は苦痛、目的は社会秩序の維持にあり」と主張し、新派の主観主義派で教育刑を唱える牧野英一(東大)らと対立した。

1930年代に入るとマルクス主義学生運動に同調し、刑法の階級性を強調するようになった。1932(昭和7)年の著書「刑法読本」が自由主義的であるとして、右翼の攻撃を受けた。1933(昭和8)年42歳の時、文部省は滝川学説が共産主義的だとして休職処分に付し、これに抗議して京大法学部全教官が辞表を提出し、学生もこれに呼応するという事件が発生した。これが「滝川事件」といわれる思想弾圧事件だ。
結局、教授・学生側の敗北に終わり、滝川は他の教授とともに退官した。

戦時下を弁護士としてすごした。第2次大戦後、文部省が休職処分の誤りを認めたのを機に、1946(昭和21)年55歳で京大教授に復帰し、法学部長として法学部の再建にあたった。そして1953(昭和28)年62歳のとき京大総長に就任したが、学生運動でしばしば学生と対立した。1957(昭和32)年66歳のとき、任期満了となり退官した。

滝川事件は、戦後の混乱した世の中で、何とか統制をとろうとする政府と、自由を獲得しようとする学者や学生との闘いであるが、理論的には正しくても敗北する場合はよくあることだ。

企業においても同様であるが、正しいと思ったことであっても、客観的に見れば間違っていることもある。言い回しとか方法を変えて根気強く話し合っていくしかない。問題なのは、すぐにあきらめたり、ふてくされてしまうことだ。

◆滝川事件◆
 京大法学部滝川幸辰教授の休職処分をめぐって、政府文部省と京大との間に発生した抗争。当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況を象徴する事件だった。
 1933(昭和8)年初めの第64議会で、前年の司法官赤化事件の根源は帝大法学部の赤化教授にあるとする右翼議員の攻撃に端を発し、同年4月に文部大臣鳩山一郎が京大に対し、滝川教授の著書や講演が共産主義的だとして、総長小西重直を通して辞職を要求した。そして京大総長以下京大の教授・学生の反対を押し切って、5月26日滝川教授に対して休職処分を発令した。
 京大法学部の全教官は、処分は学問の自由と大学の自治を侵すものとして抗議のため辞表を提出し、「死して生きる途」を選んだ。東大ほか各官・私大の学生も抗議運動に立ち、大学自由擁護同盟を結成した。しかし文部省は強硬で、小西総長に代わる新総長松井元興の推薦を待って強硬派の佐々木惣一ら6教授を免官した。これに抗議して他の14教官も辞職し、全教官の3分の2が京大法学部を去った。戦後、文部省が休職処分の誤りを認め、滝川は法学部長として京大に復帰した。



滝川幸辰のことば
  「汝の道を歩め」


滝川幸辰に関する映画
  わが青春に悔なし [VHS]


滝川幸辰の本
  新版 刑法講話
  滝川幸辰―汝の道を歩め (ミネルヴァ日本評伝選)
滝川幸辰―汝の道を歩め (ミネルヴァ日本評伝選)