ありありと覚えて   

志賀直哉

きょうは「小説の神様」と呼ばれている小説家 志賀直哉の誕生日だ。1883(明治16)年生誕〜1971(昭和46)年逝去(88歳)。

宮城県石巻町に士族で銀行員の父直温、母銀の次男として生まれた。祖父は旧藩主相馬家の家令をつとめている。2歳から東京麻布で育った。学習院に学び、中等科のとき母が亡くなり父は後妻を迎えた。1906(明治39)年、学習院高等科を卒業、東京帝國大学英文科に入学、のち国文科に転科したが、1910年27歳のとき、退学した。
直哉は内村鑑三の影響をうけ、足尾銅山鉱毒事件の視察をめぐって、鉱山側の父と対立した。以後10数年にわたり父子の不和は続いている。

1910(明治43)年4月、武者小路実篤有島武郎学習院の仲間とともに雑誌「白樺」を創刊し、自己の主張と人道主義をとなえ、当時の自然主義を主流とする文壇に新しい分野をひらいた。同誌創刊号に「網走まで」を発表した。その後「清兵衛と瓢箪」「濁った頭」「范の犯罪」「小僧の神様」などを発表した。この頃、父との確執はより険悪になり直哉は尾道に移住した。

当初から適確にして簡潔な短編小説の世界を構築、客観小説と私小説とをあわせて発表した。寡作にして、芥川龍之介はじめ大正期の文学者より敬愛を受けた。
1914(大正3)年31歳で武者小路実篤の従妹 勘解由小路康(かでのこうじ さだ)と結婚し我孫子に新居を建てた。この年以降3年間創作活動は停止した。

1917(大正6)年34歳の時、対立していた父と和解した。この経緯については、「大津順吉」(1912年)から中編「和解」(1917年)にかいている。この頃、名作「城の崎にて」も発表した。
その後、1921(大正10)年から長編「暗夜行路」を「改造」に連載し始めた。この作品は、近代的苦悩を背負った人間の潔癖な魂の発展史をテーマに取り上げ、近代日本文学の代表的作品として評価されている。これが完結したのは1937(昭和12)年54歳の時のことであった。

戦時中はほとんど創作活動を行わず、戦後も身辺雑記的な作品のみ発表、静かな晩年を過ごした。
対象の真実をリアルにとらえた直哉の文学は強烈な個性の輝きを放っている。文学史上において、強い倫理観、鋭い感受性、強靱な自我にささえられた作風は、大正・昭和を通じて多くの文学者の指標となった。

直哉は取材旅行に際しても、特にメモはしなかったようだが、書く段になってありありと覚えていて、その状況が描写でき、同行の和辻哲郎もびっくりしたようだ。

企業活動においては、覚えておくことも必要だが、すぐにメモを取る習慣にしておいた方が後で思い出す場合も有効な手段だ。手帳と筆記用具をつねに持ち歩くのは、企業人の常識だ。


志賀直哉のことば
  「宗教でも、自分が凝ると、他を信じている者は皆異端者だと云う事になる。
    そういう狂信は、人間を不幸にする」
  「大地を一歩一歩踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。
    急がずに、休まずに」


志賀直哉の本
  暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)(後編)
  和解 (角川文庫)  
  志賀直哉全集 〈第1巻〉 或る朝 網走まで〜(第22巻)、補巻
  志賀直哉 (ちくま日本文学全集)
  志賀直哉ルネッサンス
  志賀直哉〈上〉 (新潮文庫)(下)
志賀直哉ルネッサンス志賀直哉全集 〈第1巻〉 或る朝 網走まで和解 (角川文庫)暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)