行動的知識人だった   

中島健蔵

きょうは昭和を生き抜いたマルチ人間 中島健蔵の誕生日だ。1903(明治36)年生誕〜1979(昭和54)年逝去(76歳)。

東京麹町に生まれる。東京高師付属中学、松本高校を経て、東京帝大仏文学科を卒業した。フランス文学研究室に残り、1934(昭和9)年31歳で東大講師となり、翌年、福島市出身の大原京子と結婚した。

講師をするかたわら、文学・社会評論活動を始め、戦後は文化団体の基盤づくりに邁進した。また、野兎(やと)病の権威である義父大原八郎の影響を受け、中学時代に関心を持っていた細菌学への興味が復活、日本細菌学界へ入った。

1945(昭和20)年42歳の時、日本文芸家協会を再建し理事となった。1948(昭和23)年、日本比較文学会を創立した。1954(昭和29)年51歳の時、それらの功績により菊池寛賞を受けた。その他、日本ペンクラブの再建、日本著作権協議会日本オーディオ協会などの創立など多数の学会、団体に関係し、戦後の文化活動の軸とした。

その後も、1951(昭和26)年のチャタレイ裁判では、福田恒存とともに特別弁護人を務め、表現の自由のため努力し、1956(昭和31)年には日本中国文化交流協会を設立、理事長に就任し日中国交回復の機運を高めるため尽力した。1961(昭和36)年58歳でアジア・アフリカ作家会議日本代表となり、1968(昭和43)年 銀座ニコンサロンで写真展「顔・顔・顔」を開催、1973(昭和48)年には放送文化賞を受けるなど、各方面にわたって顕著な活躍をした。
著書は1957年の「昭和時代」から「自画像」、そして1978年の「証言・現代音楽の歩み」、野間文芸賞受賞の「回想の文学」など多数ある。

中島健蔵は、小説、音楽、美術、映画など幅広い分野の評論活動を行い、また50を超す文化団体を率い、ラジオ、テレビの司会はじめ講演会、対談を見事にこなした。中でも特技といえる名司会者ぶりに加え、マスコミやジャーナリズムの幅広い注文にすばやく対応できる専門的知識人として社会評論活動を展開し、「日本文化全部の父」「スーパーマルチ人間」「昭和のマルチ人間」などと言われている。
健蔵の名前から「けんち」の愛称で親しまれた。

中島健蔵が今に生きていたら、知らない人がいないくらいの有名人なのだろうが、今の有名人と少し違う感じを受けるのは、彼が、関東大震災二・二六事件日中戦争、太平洋戦争と時代の波をもろに受けながら、戦後、二度と同じ歴史を繰り返すまい、と日本の民主化のために活動した行動的知識人だったからかもしれない。まさしく戦後日本の文化を築き上げた最大の功労者にして、巨人といってよいだろう。

企業においても、やる仕事の基本姿勢として信念があると、内容が違ってくるのは当然で、自分自身のやりがいにもつながるようになる。やる仕事の目的をよく考えて行動するように心がけたい。


中島健蔵のことば
  「理想とは、決して固定しているものでもなく、
    いわば、無限に一歩ずつ先へ歩いてゆく目標のようなものである」


中島健蔵の本
  人間の心の歴史 1,2,3
  ボードレール芸術論 (角川文庫)
  筑摩世界文学大系 (28)
  明治文學全集 66 國木田獨歩集
  メタセコイアの光―中島健蔵の像(かたち)