導くカギに   

ヘルツ

きょうはドイツの物理学者、周波数の単位Hz名にもなった 
ハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツの誕生日だ。
1857年生誕〜1894年逝去(36歳)。

西ドイツ ハンブルグユダヤ教からキリスト教に改宗した、文化的な雰囲気に満ちた裕福なユダヤ系の家系の長男として生まれた。父は弁護士、母は医者の娘であった。学校においては、アラビア語サンスクリット語の語学と同じように、科学への適性も優れ、技術者になることを目指していた。ヘルツが活躍した19世紀の後半は電気の理論的な研究が盛んな時代だった。

高等学校を終えるとフランクフルトへ行き、そこの建設局で働き、現場の技術経験を積んだ。その後ミュンヘン大学に入学し設備の整った物理実験室で様々な実験を行い、更なる進歩を目指してベルリン大学へ行き、助手として三年間学んだ後、キール大学の講師になったが、不運なことに物理実験室が無く、理論的研究しかできず、後に役立つマクスウェルの電磁方程式を理論的に探究した。
キルヒホッフとヘルムホルツの指導学生として、1880年23歳で博士号を取得。キール大学の理論物理の講師となった1883年までは、ヘルムホルツの門下生として研究を続けた。

1864年にドイツのマクスウェルが電磁波(電波)の存在を予言した。ミュンヘン大学ベルリン大学で数学と物理学を学んだヘルツは、数学の才能に優れ、たいへん実験が得意な物理学者で、マクスウェルが予言した電磁波の存在を実験で証明することを決意した。

1885年28歳のとき、カールスルーエ工科大学の物理学教授になったヘルツは、大学のいろいろな装置をつかって実験を重ね、ついに1888年、電池と感応コイルを用いた実験装置で電磁波を発生させ、空中伝播で送受信することに成功した(ヘルツの実験)。電気が電磁波として伝わり、その速度は有限で光速度に等しく、光に似た反射・屈折などの諸性質を持っていることなどを証明した。

あまり注目されていなかったマックスウエルの方程式が正しいことが確認され、一躍注目を浴びることになり、それが更なる大きな飛躍を生み出すことになった。
後のアインシュタインによる相対性理論は、マックスウエルの方程式の中に光速度不変の法則の大きなヒントが示されていたことによる。

ヘルツが発見した電磁波を使って、1895年に無線通信を発明したのがイタリアのマルコーニだ。しかし、ヘルツはマルコーニの発明を知らずに、その1年前に37歳の若さで病気で亡くなった。甥であるG・ヘルツは1925年にノーベル物理学賞を受賞、その息子であるC・ヘルツは医学における超音波画像を発明した。
ヘルツの名前を後世に伝えるために、1933年以降、一秒間当たりの振動数(周波数)の単位ヘルツ「Hz」が使われている。

ヘルツはマクスウェルの予言を証明し、それをもとにマルコーニが無線通信を発明し、またアインシュタイン相対性理論導くカギにもなっている。

企業においても、他社の商品や過去の歴史をベースに、新規商品を開発すると容易にできる場合が多い。また社内においても、できるだけ情報や実績データを共有することで効率化を図ることができる。


ヘルツの本
  力学原理 (物理科学の古典)
  天才物理学者 ヘルツの生涯


     
      電波の存在を実証したヘルツと実験装置