力のあるものに   

小堀鞆音

きょうは日本歴史画家 小堀鞆音(こぼり ともと、本名:桂三郎)の誕生日だ。1864(元治1)年生誕〜1931(昭和6)年逝去(67歳)。

下野国(現 栃木県佐野市小中町)に須藤惣兵衛と妻美奈の3男として生まれる。父 晏斎、長兄 桂雲とも近隣では有名な画家という家庭に育ち、それぞれから絵の手ほどきを受けた。1883(明治16)年19歳のとき実家近くの小堀家を継ぎ、その戸主となった。

1884(明治17)年、第2回内国絵画共進会に出品したのをきっかけに上京し、川崎千虎(ちとら)に師事し大和絵有職故実(ゆうそくこじつ:宮中にまつわる伝統的な行事や儀式に関する知識)を学んだ。川崎千虎の斡旋で博物館(現 東京国立博物館)の臨時雇となり、続いて皇居御造営事務局、農商務省特許局などに勤め、装飾下図の製作に従事する一方で古画の模写に携わり、研鑚を積んだ。

その一方で創作活動に従事し、早くから内国絵画共進会や日本美術協会絵画共進会などで賞を受けた。有職故実に基づいた正確な歴史考証による歴史画を得意とした。特に有名な武士を画材とする上で不可欠の甲冑(かっちゅう:よろい、かぶと)の研究にも没頭した。そして自ら甲冑を模作し、弟子たちと着用している。

1892(明治25)年28歳のとき、岡倉天心、橋本雅邦らを中心とする日本青年絵画協会(1896年に日本絵画協会に改組)に参加し、第1回の審査員を勤めた。1897(明治30)年には東京美術学校(現 東京芸術大学助教授となったが、翌年辞任し天心や雅邦を中心とする日本美術院の創立に参加した。

その後、1907(明治40)年に設立された文展(文部省美術展覧会)の審査委員となり大和絵を復興させ、翌年には東京美術学校に教授として復帰するほか、1917(大正6)年に帝室技芸員、2年後に帝国美術院会員、9年後に東京府美術館顧問、そして1929(昭和4)年65歳で国宝保存会臨時委員などを歴任した。

鞆音は、作家活動の上でも地味ではあるが、大和絵の伝統を取り入れた新しい歴史画に見るべきものがあり、とくに歴史人物画(武者絵)がすぐれていた。その門下から安田靫彦、川崎小虎ら逸材が出ている。代表作に「武者図」「経政詣竹生島」「宇治橋合戦」「清麿詣宇佐」などがある。

鞆音の絵そのものはフィクションであるが、装身具などは本物を忠実に再現していたようだ。よって迫力のあるものになっている。
企業の改善活動でも、現場からいかに事実を読み取るかが重要になる。この場合は、物だけでなく、時間や人の気持ちなど目に見えないものも大切な要素になる。


小堀鞆音の作品
  
 武者図             那須宗隆射扇図