切り離すことができない   

宮地伝三郎

きょうは生態学者でモンキー博士 宮地伝三郎の誕生日だ。
1901(明治34)年生誕〜1988(昭和63)年逝去(87歳)。
広島県因島市に生まれた。県立福山中学校(誠之館)から東京帝国大学理学部動物科に入学。東京帝大を卒業後、直ちに京都帝国大学理学部講師となった。
1935(昭和10)年34歳の時、ヨーロッパ各地に出張し、国際生物科学連合総会や国際海洋生物会議に出席して見聞を広め、川村多実二教授が組織した関東州・満州中国東北部)の陸水生物調査に加わって、その報告のまとめに当たった。
大学の担当講座の運営では、自由な論議による自主性を重視した「グループ研究」をすすめ、放流基準密度の算定に関してのアユの生態研究、稚魚育成の場として藻場の研究、中海水系や琵琶湖の総合調査などを主宰した。
1942(昭和17)年41歳の時、川村多実二教授の後任として同大学理学部動物学科教授に就任し、評議員、理学部長を歴任した。
その間、12年にわたって日本学術会議会員となり、日本自然保護協会理事、日本生態学会会長を務め、京大霊長類研究所、日本モンキーセンターを創設して、ニホンザルの生態研究を行い、共同研究を指導した。
1964(昭和39)年63歳で京都大学を退官し、同大学名誉教授となった。退官後には日本モンキーセンター初代所長、淡水生物研究所所長、関西文理学院院長、日本科学映画協会理事などを歴任した。
日本の湖沼や内湾の低生動物群集組成を精査し、それを指標として湖沼や内湾の特性や類型区分を初めて示した。このときドイツから輸入した採泥器は、日本で普及する基となった。
淡水生物学研究調査、陸生動物相、海棲動物相、淡水魚等の研究に従事するとともに、各種新書で、動物学関係の軽妙な随筆書を多数出版し、京都大学の動物生態学の興隆に重要な役割を果たした。
今西錦司をはじめとする、いわゆる京都学派と言われるグループに属し、日本の生態学の発展に大きく貢献した。
なお、日本学術会議国学術視察団の一員として訪中し、またソ連科学アカデミーの招きで学術調査団員として訪ソするなど、学術交流にも力を尽くした。
宮地伝三郎京都大学伝統の好奇心旺盛な科学者で、自然を相手に多くの分野において業績を残している。単独の分野に絞った方がより深い研究ができそうな気もするが、彼にとってはどれも切り離すことができないくらい連係していたのだろう。
会社の改善においては、最終的には利益へ結びつけるとしても、安全性から始まり作業性、生産性、採算性、品質、環境など、あらゆる項目について検討がされ、それらがスピーディに実施されなくてはいけない。


宮地伝三郎のことば
  「食べてみるまでが魚学」
  「さきがけて新しい道をひらくことは、なにごとにつけてもむつかしい」


宮地伝三郎の本
  十二支動物誌 (ちくま文庫)
  アユの話 (同時代ライブラリー)
  山女魚百態 (渓流の本)
  香魚百態 (渓流の本)
  岩魚百態 (渓流の本)
  原色日本淡水魚類図鑑 (保育社の原色図鑑 32)




  チベットベニガオザルの親子(日本モンキーセンターより)