システムを作り上げて   

御木本幸吉

きょうは真珠養殖法を開発した実業家 御木本幸吉(みきもと こうきち)の誕生日だ。1858年生誕〜1954逝去(96歳)。
志摩国鳥羽(現 三重県鳥羽市)のうどん屋「阿波幸」の長男として生まれた。若いころから商才を発揮し、早くから起業家精神が旺盛だった幸吉は、行商を経て18歳で米屋を始め、東京、横浜、大阪、神戸といった都市で見聞を広め、次第に鳥羽の海産物を世界に広めようという夢を描いていた。
1881年(明治14)年23歳で、久米うめと結婚した。うめは、鳥羽藩の剣道師範・久米森造の長女で、17歳だった。高い教養を身につけ明るい女性で、家業をきりもりしながら幸吉の事業の良き理解者として陰の力となった。
1896年32歳で亡くなった。
鳥羽は真珠の産地として有名だが、乱獲がたたって明治中期にはほとんど真珠がとれなくなっていた。幸吉はこれに心を痛め、天然真珠の売買をしながら真珠の養殖を思い立ち、1888年にまずアコヤ貝の養殖をし、そして養殖による真珠の生産にトライした。1890(明治23)年に動物学者箕作佳吉から真珠は養殖できるかもしれないと聞き、英虞湾の無人島に妻と二人だけで真珠養殖所を設立した。
赤潮による真珠貝全滅という悲運にもめげず、家の財産の大半を注ぎこんで研究を続け、1893(明治26)年、養殖したアコヤ貝の穀(カラ)の内面にコブのような五つの半円真珠を造り出すことに成功した。ついで1905年には多徳島で天然と変わらない真円真珠の養殖に成功した。その後、少しずつ生産規模を拡大していき、海外にも養殖真珠を紹介・販売してミキモト・パールの名をひろめ、やがて真珠王国が出現することになった。  
1924(大正13)年、貴族院多額納税者議員になったが、1年で辞任して真珠事業に専念した。1926年フィラデルフィア万国博覧会に真珠塔を出品して「世界の真珠王」の名を知らしめた。
1940(昭和15)年、真珠はぜいたく品として、養殖事業に制限を加えられ、また太平洋戦争期には輸出も中断して大きな打撃をうけた。戦後まもなく生産を再開し、1951(昭和26)年、真珠の神秘的な美しさと真珠王の偉業を伝える御木本真珠島を開島した。その後、96歳で没するまで真珠業界を指導し、伊勢志摩の観光ブームの火付け役にもなった。
アコヤ貝の中の玉を飾りにしようと考えるのは誰でも思うことかもしれないが、それを養殖しようとなどは考えても実行に移す人は少ないはずだ。幸吉はそれを実行し、成功に結びつけるのだが、偉いのは、真珠の品位を高めながらビジネスとして売り込むシステムを作り上げていることだ。
現場の改善においても、アイデアを実施することは大切なことだが、実施しておしまいでなく、それが目標以上に成果をあげていることを確認することが必要であり、さらに改善を継続していくことが重要だ。


御木本幸吉のことば
  「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます 」
  「常識なんかをありがたがっていて偉くなれるか」
  「真珠は首飾りや指輪に加工するからキズがみえぬ様に穴をあけたり
    手をいろいろ加えれば、そのキズは無いものにできる。
      人間を選ぶときも同じことですよ」


御木本幸吉の本
  志摩の海にかけた夢―真珠づくりに一生をささげた御木本幸吉 (PHPこころのノンフィクション 29)志摩の海にかけた夢―真珠づくりに一生をささげた御木本幸吉 (PHPこころのノンフィクション 29)
  幸吉八方ころがし―真珠王・御木本幸吉の生涯 (文春文庫)
  御木本幸吉 (人物叢書)












  
  アコヤ貝と真珠              御木本真珠島