自然の中を歩きながら   

大町桂月

きょうは明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家 大町桂月(おおまち けいげつ 本名:芳衛)の誕生日だ。
1869年生誕〜1925年逝去(56歳)。
高知藩土佐郡北門筋八番屋敷(現 高知市永国寺町4-10)に土佐藩藩士の息子として生まれた。1980年11歳のとき父を失い、上京し、軍人のおじに育てられた。おじから強く影響を受け軍人を志望したが、近視になったため断念した。のちに第一高等中学に入学、本来5年制だが7年かけて卒業している。
1893(明治26)年、東京帝国大学国文科に入学した。父親は旧土佐藩士だったが、経済的に恵まれていなかったようだ。帝大の学費が払えないという状況が続き、桂月はあちこちの雑誌に投稿・寄稿して原稿料を稼ぐ生活をしている。友人の塩井雨江は、桂月があまりに経済的に困窮しているのを見て、婦女のための雑誌「女鑑」の自分の執筆枠を譲ってあげている。
在学中、雑誌「帝国文学」の創刊に関与、編集委員となり、長詩、文芸評論などに活躍したようだ。
卒業後、博文館に入社し、評論などで活躍した。1904年与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を批判し、論争を呼んだ。
雑誌「中学世界」を手がけながら明治の青少年の生きる道を説き、夢と感動を与えるなど、愛国の情に満ちあふれた思想家でもあった。
1908(明治41)年、当時話題の博文館発行の雑誌「太陽」の編集長で青森県出身の鳥谷部春汀に紀行文を依頼されて、初めて初秋の十和田に足を踏み入れ、その美しさに魅せられた。帰京後、「太陽」に「奥羽一周記」という題で十和田湖を載せ世に紹介した。未だ情報や広報など少ない時代に、本州最北の十和田湖の景観を一躍世に知らしめ、現在の十和田湖観光の礎を築き上げた一人である。
登山家としても知られ、1924(大正13)年、南アルプスに登山し、手甲、脚はんに振り分け荷物のいでたちで農鳥山頂に立って詠んだ歌「酒のみて 高ねの上に吐く息は 散りて下界の雨となるらん」が、1957(昭和32)年、歌碑となり東農鳥岳山頂(3、026m)に建立された。
明治の美文家として高名な桂月は、故郷へ帰ることなく終生 蔦温泉を愛し、晩年は本籍を蔦に移し蔦温泉を終の棲家とした。
青森の風物をこよなく愛した鉄脚の歌人 桂月は、県内のほぼ全域を走破し、西海岸や下北地方、八甲田山十和田湖など、各地にその風景を讃える歌を残した。
当時の旅は歩くのが主となるはずであり、桂月は自然の中を歩きながら、世の中のこと、自分のことなどを深く考えたに違いない。そして名文や俳句がうかんできたのだ。「酒なくば 桂月 生くといえども死したるに同じ」とよみ、酒が離せなかったようだが、自分のあり余る才能の使いみちに悩んでいたような気もする。
業務において、なかなか考えが浮かばないことがあるが、そんな時はズルズルと考え続けるのではなく、一旦中止し、歩くなり現場を見に行くなりすると、ふっといいアイデアが出てくるものだ。ほかの人と何らかの会話をするというのも、解決の糸口になることがある。


桂月 辞世の歌
  「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出で湯に身をば清めて」


大町桂月の本
  杉浦重剛先生
  東京遊行記 (文学地誌「東京」叢書 (3))
  叢書日本人論 (15)叢書日本人論 (15)
  伯爵後藤象二郎―伝記・後藤象二郎 (伝記叢書 (171))

      
 十和田湖