力強さとともに暖かさを   

前田青邨

きょうは日本画前田青邨(まえだ せいそん 本名:廉造
=れんぞう)の誕生日だ。
1885(明治18)年生誕〜1977(昭和52)年逝去(92歳)。
岐阜県恵那郡中津川村(現 中津川市)に父常吉・母たかの次男として生まれた。中津尋常高等小学校卒業、1898(明治31)年13歳のとき母が亡くなり、上京して叔父のところに身を置いた。
1901(明治34)年16歳のとき、尾崎紅葉のすすめで、梶田半古(はんこ)の塾に入った。1902(明治35)年に師 梶田半古から「青邨」の雅号をもらった。同年 日本絵画協会と日本美術院の連合展に初出品し三等褒状を受け名声を得た。以後 古画の模写をおこないながら新しい日本画の模索を続けた。
911(明治44)年26歳の時、荻江節(おぎえぶし:長唄の流派)初代家元の妹 佐橋すゑと結婚した。
1912(明治45)年27歳の時、第十七回紅児会展に出品し、岡倉天心の「前田さん、濁りをお取りなさい」の言葉に発奮する。
安田靫彦今村紫紅らの研究団体である紅児会にも加わって努力を重ね、歴史画から肖像画花鳥画と幅広い作域を示し、独特の画境を築いた。1918(大正7)年 日本美術院評議員に推挙され、1922(大正11)年には日本美術院留学生として、小林古径とともに渡欧し、ローマ・フィレンツェ・パリに滞在した。
戦時中は郷里 中津川に疎開し、終戦後 北鎌倉の自宅に戻った。
1950(昭和25)年65歳の時 東京芸術大学教授として迎えられた。1967(昭和42)年 法隆寺金堂壁画再現のため、総監修に安田靫彦(ゆきひこ)と就任。1970(昭和45)年 皇居新宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」に「石橋」を制作。2年後87歳の時 高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱された。
青邨画伯は小林古径(こけい)・安田靫彦と並び日本美術院の俊秀で、明治・大正・昭和を通じ、近代日本の日本画を代表する画家である。作風は日本画のみならず、絵画表現の根底において格別におおらかで、うねる山脈をみるような力強い素描に特徴がある。
青邨画伯の作品からは、確かなまとまりの中に、力強さとともに暖かさを感じるのだが、やはり少年時代から育ってきた環境に加え、古画の模写を繰り返し行いながら自分の画風を創り出していったところにあるような気がする。
改善においても、他社とか他部署とかで良いと思った方法は、どんどん真似をしたらいい。そしてそれをやりながらも、自分なりの考え方を反映させ、さらに発展させていけばいいのだ。


前田青邨の本
  定本前田青邨作品集
  作画三昧―青邨文集
  前田青邨 (新潮日本美術文庫)
  巨匠の日本画 (8) 前田青邨
  アート・ギャラリー・ジャパン/20世紀日本の美術 ジャケット版 (5) 平山郁夫/前田青邨 (アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術)
アート・ギャラリー・ジャパン/20世紀日本の美術 ジャケット版 (5) 平山郁夫/前田青邨 (アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術)巨匠の日本画 (8) 前田青邨前田青邨 (新潮日本美術文庫)














  
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