シンプルである   

八木秀次と八木アンテナ

きょうはTVアンテナの発明者 八木秀次の誕生日だ。1886(明治19)年生誕〜1976(昭和51)年逝去(89歳)。
大阪府に生まれた。1909(明治42)年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、1913(大正2)年27歳のときイギリス、アメリカ、ドイツに留学した。ドイツでは無線通信用の連続した電波の発生の研究を行い、3年後に帰国した。この留学生活で無線学が彼の生涯の研究テーマになった。
1919(大正8)年33歳で東北帝国大学工学部設立とともに教授となり、同年、工学博士の学位を得た。彼は、将来において短波あるいは超短波による通信が主力となることを予見し、その研究と指導を続けた。
1925(大正14)年39歳のとき、八木の助手をしていた杉本武雄の発見をもとに、八木研究室講師の宇田新太郎と共同で、「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」等の論文を発表した。これらの理論に基づき、超短波用のアンテナいわゆる「八木アンテナ」の基本となる「電波指向方式」を発明し、特許権を得た(特許第69115号、1926年大正15年)。
このアンテナは、当時国内ではほとんど注目されなかったが、諸外国では軍用に使用された。このアンテナは、何本かの直線の金属を平行に並べた極めて簡単な構成で、電波の指向性通信を可能にしたもので、今日 超短波、極超短波で使用されているほとんどすべてのアンテナ系はこの方式によって構成されている。
1942(昭和17)年56歳で、東京工業大学学長に、1944年には技術院総裁に就任し、1946年には大阪帝国大学総長となった。その他参議院議員武蔵工業大学学長などをつとめた。
晩年の彼は自分の研究よりも、人材の育成に力をそそぎ、多くの優秀な人材を世に送り出した。湯川秀樹ノーベル賞受賞の陰にも、彼の尽力があったそうだ。
偉大な発明や優れた商品というのはシンプルである。という典型的な例である。
理論的には難しく理解しにくいが、構造と言うより形は簡単そのものでコストも安いはずだ。
改善業務においても、簡単に考えるとすばらしいアイデアが浮かぶことが多い。
なるべく要素を少なくすると考えやすいからかもしれない。いろんな問題で思い悩む場合も、シンプルに考えると解決するかもしれない。

★★★八木アンテナ★★★
TV放送時代を迎えた時、八木アンテナは一躍花形となったが。それから、数十年経った今でも、TVの受信用としては、これ以上のアンテナは発明されていない。 彼の研究は、あまりの先進性ゆえに、発明当初の日本ではほとんど重視されなかったが、諸外国の特に軍部はこの発明の重要性を認識し、高性能レーダーなどの多くの兵器に役立てていった。太平洋戦争の末期、日本軍は米軍捕虜から押収した書類の中に"Yagi"という言葉が頻繁に出てくるため、不思議に思って捕虜を尋問したところ、逆に「日本人がなぜ八木アンテナを知らないのだ?」と米兵を驚かせた。 日本軍部はあわてて、すぐに高性能レーダーの開発に着手したが、ときすでに遅く終戦を迎えていた。
八木は、自分が開発したアンテナが敵を助け、日本の多くの国民を失う要因の一つになったことに苦しんだ。しかも、彼は、戦犯の嫌疑までかけられている。 八木アンテナ命名したのは、日本人ではなく、欧米人が付けた名称のようだ。日本では、彼が軍部にも自ら出向き情報機器の重要性を進言しているが、まったく相手にされなかったのだ。
もし、日本の軍部がこの発明の重要性に気が付いて、真剣に取り組んでいれば・・・。
歴史は大きく変わったかもしれない。



八木秀次の本
  電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち
  八木アンテナを作ろう―電脳設計ソフト YSIMで作る八木アンテナ (CQハンドブック・シリーズ)
  アマチュアの八木アンテナ
電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち











  通信実験をした現在の八木山