主張することができず  

吉野作造

きょうは政治学者、大正デモクラシー運動の理論的指導者  吉野作造の誕生日だ。
1878(明治11)年生誕〜1933(昭和8)年逝去(55歳)。
宮城県志田郡古川町(現 古川市)の商家に生まれ、仙台の大学予科法科(のち第二高等学校)を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学、小野塚喜平次に師事し、首席で卒業、同大学院も卒業した。
予科の時代に、バプテスト教会の宣教師ブゼル女史の聖書研究会に参加、キリスト教の洗礼を受けた。帝大在学中に、本郷教会の海老名弾正の影響もあってキリスト教社会主義に近づいた。
東大卒業後、1906(明治39)年28歳のとき、清国に招かれ袁世凱の長子の家庭教師になり、北洋法政学堂の教授にもなった。1909年に帰国して東京帝大助教授、その後3年余り欧州に留学し、1914(大正3)年、帰国して教授になった。
大学で政治史を教える一方、「中央公論」の編集者 滝田樗陰(ちょいん)の依頼で政治論文を発表した。特に1916年1月号「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」で大正デモクラシー運動の代表的な論客となり、一般民衆の利福を政治の目的とし政策の決定には一般民衆の意向を反映することだと主張した〈民本主義〉。これは当時の最も有力な民主主義政治思想になった。
また右翼浪人会に攻撃を受けたが、学生や知識人の圧倒的支持で撃退した。1918年40歳のとき東大新人会という社会運動団体を結成し、普通選挙論・貴族院改革論などで国内政治の改革を訴えた。
1924(大正13)年46歳の時、東大教授の職を辞任し、朝日新聞社の論説顧問となるが枢密院批判で起訴されそうになり、3カ月ほどで退社した。以後東大講師の職に就き、総長古在由道の顧問役を果たすとともに尾佐竹猛らと明治文化研究会を設立、雑誌「明治文化」などのほか「明治文化全集」全24巻を刊行した。この間1926年の社会民衆党の結成などにも力を惜しまなかった。
吉野が主張した「民本主義」はDemocracyの訳語であり、天皇主権の明治憲法の下では、民主主義(主権在民)を主張することができず、これが吉野の限界であるといわれている。吉野の影響を受けた学生らが新人会を作るが、マルクス主義の影響が強くなると、吉野の思想は古いとみなされてしまった。
しかし明治憲法下という制約の中、Democracyが世界の大勢であると論じ、大正デモクラシーの機運を盛り上げた功績は評価すべきである。
企業においても、社内外で自分の主張が通り難い場面もあるが、○・×、黒・白、勝ち・負け、という二者択一の考え方でなく、「交渉」と捉え、妥協案を見出すことも必要である。そのためには時間をかけて粘り強く話し合うことが重要だ。


吉野作造のことば
  「 憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」

吉野作造の本
  吉野作造選集〈1〉政治と国家〜(15)
  吉野作造選集〈13〉日記 1
  吉野作造評論集 (岩波文庫)
  吉野作造選集〈3〉大戦から戦後への国内政治
  吉野作造―閑談の閑談(抄) (人間の記録 (66))
  中国・朝鮮論 (東洋文庫 (161))
中国・朝鮮論 (東洋文庫 (161))吉野作造―閑談の閑談(抄) (人間の記録 (66))吉野作造選集〈1〉政治と国家