ひたむきに研究一筋に生きた

辻村みちよ

きょうは緑茶のカテキンを発見した日本初の女性農学博士 辻村みちよの誕生日だ。1888(明治21)年生誕〜1969(昭和44)年逝去(80歳)。

足立郡桶川宿(現 埼玉県桶川市)に父 甚太郎・母 津禰(つね)の二女として生まれた。父は坂田尋常小学校校長を務めており、母は、当時としては珍しくトマトを栽培したり英語を勉強するなど、積極的に新しいことに取り組む人だった。
五歳上に兄 鑑(かん)、四歳上に姉 きよみ、二歳下に二男 贛(きたう)、五歳下に二女 みさほ、11歳下に三男 鑛(こう)、14歳下に三女 みどりという七人きょうだいだった。

当時の学校制度は、小学校尋常科が4年で義務、その上に高等科が4年で「受業料」というものを取っていた。このため、多くの家庭が学校に行かせない状態であった。特に女子の就学には無理解で、行かせても3年やれば良い方だった。

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迷惑が及ぶことを恐れた

渡辺崋山

きょうは江戸時代末期の蘭学者であり画家 渡辺崋山(わたなべ かざん、本名:定静 さだやす、通称:登 のぼり)の誕生日だ。
1793(寛政5)年生誕〜1841(天保12)年逝去(48歳)。

三河国田原藩(現 愛知県)の重役である父 渡辺定通・母 栄の長男として江戸麹町の藩邸で生まれる。
重役の家に生まれたものの、当時の田原藩は財政難を極め俸禄はわずかしか支払われず、加えて父 定通が病気がちであったために、幼少期は貧窮の中に送った。

11名の家族で貧しい渡辺家は、幼い弟や妹は次々に奉公に出され、この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載されていた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになった。

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重厚剛胆で潔癖・無欲

大森房吉

きょうは地震計を発明した「日本地震学の父」 大森房吉(おおもり ふさきち)の誕生日だ。
1868(明治元)年生誕〜1923(大正12)年逝去(55歳)。

福井城下新屋敷百軒長屋で家禄は切米10石3人扶持の下級武士 大森藤輔の五男として生まれる。
兄弟が多く家計は貧困だった。1874(明治7)年5歳の時、旭小学校に入学するが、やがて上京、兜町 坂本小学校に転入し秀才としての評判をとった。

1890(明治23)年21歳で東京(帝大)理科大学物理学科に入学。ついで大学院で地震・気象学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者 ジョン・ミルン教授の指導を受けた。
1891(明治24)年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。

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「徹底」「謙譲」そして「情熱」

パブロフ

きょうは条件反射の理論を確立したソ連生理学者 イワン・パブロフ(Ivan Petrovich Pavlov)の誕生日だ。
1849(嘉永2)年生誕〜1936(昭和11)年逝去(86歳)。

ソ連邦リャザンに牧師の子として生まれた。
神学校に進んだが自然科学、医学を志向し、1870年21歳の時 ペテルブルグ大学物理数学部へ入学、ツィオン( E・ F・Cyon)のもとで外科的手法を体得し、1874年25歳の時 外科医学校(後の軍医学校)に編入学した。

同校を卒業後ドイツへ留学しハイデンハイン(R・P・Heidenhain)のもとで血管の神経支配を研究、翌年 軍医学校に帰り、ボトキン(S・P・Botkin 内科医)の臨床研究室で神経調節の基礎的研究に没頭した。1883年34歳の時「心臓の遠心性神経」の研究で学位を得た。

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本当に恥ずかしいこと

杉田玄白

きょうは「解体新書」著した蘭方医 杉田玄白(すぎた げんぱく)の誕生日だ。1733(享保18)年生誕〜1817(文化14)年逝去(83歳)。

若狭国(現 福井県)小浜(おばま)藩の江戸の屋敷で生まれた。杉田家は古くから小浜藩の医者をつとめる家柄で、父 甫仙(ほせん)も藩医として藩主のそばにつかえる身分だった。母は玄白の難産がもとで、早くに亡くなってしまった。幼いころの玄白は体が弱く、病気にかかりやすい子どもだった。

やがて、父が藩から江戸づとめを命じられると、玄白も小浜に別れをつげた。そして、17歳になったある日、彼は、自分も医学の道へ進みたい気持を父に伝え、外科医として有名な幕府医官 西玄哲に医学を、漢学を宮瀬龍門に学んだ。

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才気に満ちた新しい型の女性

相馬黒光

きょう新宿中村屋を創業した 相馬黒光(そうま こっこう、本名:良、号:黒光)の誕生日だ。1876(明治9)年生誕〜1955(昭和30)年逝去(78歳)。

仙台県第一大区定禅寺(じょうぜんじ)櫓丁通(やぐらちょうどおり)本材木町(現 宮城県仙台市青葉区)に旧仙台藩士 星喜四郎・巳之治の三女として生まれた。母方の祖父 星雄記は漢学者として伊達藩に代々仕えてきた10代目だった。父は同藩の多田郡之助の四男で、星家の養子となった。良は、片平丁小学校に通った。

1886(明治19)年9月10歳の時、アメリカから派遣された宣教師と日本人によってキリスト教主義の宮城女学校が創設、仙台神学校も開設された。1887(明治20)年5月、東二番丁の本願寺別院跡に、仙台教会と仙台神学校を移転され、良が通っていた小学校に隣接した。神学生の島貫兵太夫が奉仕していた。

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明治の殖産興業に大いに貢献

ナウマン

きょうは明治時代に日本で活躍したドイツの地質学者 エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann)の誕生日だ。1854(安政元)年生誕〜1927(昭和2)年逝去(72歳)。

ザクセン王国(現 ドイツ)マイセンに父 ハインリッヒ・母 ヴィルヘルミーネの間に姉1人妹5人の長男として生まれた。ドレスデンのチョッヘ学校で初等教育を受け、ドレスデン工業高等学校を経て1873年19歳の時ミュンヘン大学へ入学した。

卒業後、バイエルン王国高等鉱山局助手となったが、1875(明治8)年21歳の時、明治政府に東京開成学校鉱山学科の教授として招かれ、ドイツを出発した。ところが、渡航中、東京開成学校鉱山学科が廃止され、文部省金石取引所(鉱物博物館)に勤務し、翌年 22歳の若さで東京大学地質学教室の初代教授となった。

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