本当に恥ずかしいこと

杉田玄白

きょうは「解体新書」著した蘭方医 杉田玄白(すぎた げんぱく)の誕生日だ。1733(享保18)年生誕〜1817(文化14)年逝去(83歳)。

若狭国(現 福井県)小浜(おばま)藩の江戸の屋敷で生まれた。杉田家は古くから小浜藩の医者をつとめる家柄で、父 甫仙(ほせん)も藩医として藩主のそばにつかえる身分だった。母は玄白の難産がもとで、早くに亡くなってしまった。幼いころの玄白は体が弱く、病気にかかりやすい子どもだった。

やがて、父が藩から江戸づとめを命じられると、玄白も小浜に別れをつげた。そして、17歳になったある日、彼は、自分も医学の道へ進みたい気持を父に伝え、外科医として有名な幕府医官 西玄哲に医学を、漢学を宮瀬龍門に学んだ。
1752(宝暦2)年19歳で小浜藩医となった。1754(宝暦4)年 山脇東洋が、初めて死体の腑分け(ふわけ:解剖)をした。1769(明和6)年 父 甫仙が亡くなり、玄白が藩主 酒井家の侍医となった。

そして、1771(明和8)年3月4日37歳の時、玄白と前野良沢中川淳庵(じゅんあん)らが千住の小塚原で行われた死刑囚の腑分けを見学した。彼らはその少し前にオランダからもたらされた医学書ターヘル・アナトミア」(ドイツ人 クルムス著)を入手していたが、その中に描かれている人間の体の構造が、当時の医者の間で説かれていた五臓六腑の説と全く異なるため非常に当惑していた。

そこで奉行所に、医学の研究のために死刑囚の解剖をしたいと申し出、それが認可され、この日の腑分けの見学になった。そして見学の結果、玄白らはオランダの医学書の正確さを認識して感動し、ぜひともこの本を翻訳して多くの医師に読んでもらおうと決意した。

オランダ語の基礎も解らず、辞書も無く、分からない部分は文脈などから判断したが、どうしても分からないところは○に十の字を書いて、科学的探究心と情熱のみでこの先を読み進んだ。良沢の指導で苦心の末、ようやく4年後に完成し『解体新書』と名づけた。

これが日本で最初の西洋医学の翻訳書で、玄白はそれからも蘭医として診療に勤め、患者を診療するかたわら、「学塾天真楼」を開き大槻玄沢、杉田伯元ら多数の門人を育成し、蘭学の発達に貢献した。

玄白は、もし「解体新書」をいきなり出版すれば、体の中を見たこともない人々の驚きがあまりにも大き過ぎて、世の中を騒がせ、幕府に出版を取り押さえられてしまうかもしれないと思い、考えた末に、『解体新書』を世に出す前に、予告編として、簡単な『解体約図』を出版した。

そして、それを多くの医者に送る一方、やがて出来上がった『解体新書』を、まず、将軍に献上し、幕府の有力者たちにも贈り届けた。その後1774(安永3)年8月40歳の時に出版された『解体新書』全5巻は、何の騒ぎも起こさないばかりか、予告編を出したことも手伝って大評判になり、玄白、淳庵、良沢らの苦労は、みごとに実を結んだ。

しかし、玄白が1815(文化12)年に出版した『蘭学事始』にも書いているように、出版時には翻訳グループはすでに内部分裂してしまっていた。
ところで『解体新書』の中には、良沢の名が見当たらない。それは「わたしは名声を高めるために学問をするのではないから、翻訳者にわたしの名はあげないでほしい」と、良沢が言ったためといわれている。

また、彼等を支えた多くの人々も忘れてはいけない。前野良沢が仕えた中津藩主 奥平昌鹿(まさか)や玄白・中川が仕えた小浜藩主 酒井忠貫(ただつら)を始めとして青木昆陽、平賀源内など多くの上司や先輩、友人、スポンサーとなった商人達がいた。更には彼等の後に続く後輩達も大きな力となった。

解体新書の挿し絵を描いた小野田尚武は平賀源内の紹介であり、幕医の桂川甫周、一橋家侍医の石川玄常、津山藩の宇田川玄隋、仙台藩大槻玄沢などなど。後にはオランダ語辞典「波留麻和解(はるまわげ)」を著した稲村三伯や銅版画で地球図を描いた司馬江漢など科学・芸術に活躍する人物達が育っている。

玄白は、日本の医学の発達に大きな功績を残して、83歳で亡くなった。晩年になってからも、医者として、どんなに貧しい患者の家へも往診に行った。あるとき弟子のひとりが、貧しい家への往診を、みっともないので止めるように言った。彼は「貧しい人の治療は少しも恥ずかしいことではない。医者として本当に恥ずかしいことは、治療を間違えたときだ」と、諭した。

その他の著書として『解体約図』『蘭学事始』『形影夜話』『野叟独語』『い斎日録』『狂医之弁』『和蘭医事問答』などがある。
蘭学事始』は1814(文化11)年、81歳の玄白が蘭学創始の時代を回想録風にまとめたもの。

杉田玄白は、蘭方医学の仲間と人間の解剖に立会い、内臓の現物を見たショックは当然として、オランダの医学の進歩に愕然とした。そして無知識のままオランダの医学書の翻訳に取り掛かった。

企業においても、知識が無いまま開発を進めることはよくあるが、プロセスは不明でも結果がわかっている場合は何とかなるものだ。ところが、結果が不明の場合の開発やどうなるかわからない新システムは、リスクを抱えて進めることになる。この場合、手を引く限度を決めてやらないと、ズルズルと深みにはまって抜け出せなくなることもある。

蘭学鎖国により、西洋諸国の中でもオランダだけが幕府より通商を許され、西洋学術は、オランダ人・オランダ語を介して受け入れられた。当時オランダは「和蘭」「阿蘭陀」と書かれたため、「蘭学」と呼ばれた。

蘭学はオランダ人やオランダ語を通じて学ばれた西洋の学問、すなわち「洋学」と呼ばれるにふさわしい性格をもっていた。

蘭学の研究対象は広汎多岐にわたり、およそ次の4分野に大別される。
 1.オランダ語の習得や研究である語学 
 2.医学、天文学、物理学、化学などの自然科学
 3.測量術、砲術、製鉄などの諸技術 
 4.西洋史、世界地理、外国事情などの人文科学 
なかでも医学を主とする自然科学がその中心であった。

学問としての蘭学が始まったのは、『蘭学事始』に描写されているように、杉田玄白前野良沢らによる『解体新書』の翻訳、出版からであった。これを境に本格的なオランダ語の書物の翻訳が始まった。

蘭学の担い手の中心は、職業柄オランダ語に強い長崎通詞をのぞけば、医者であった。
1840(天保11)年頃を境に蘭学の性格が変化した。アヘン戦争(1839〜42年)で清国が敗戦すると、為政者たちが軍備改革の必要性を感じはじめ、蘭学もそれまでの医学から軍事科学にその中心が移った。

★蘭方医学★ 
江戸時代、オランダ人を通じて伝えられた西洋医学で、その内容は主として外科に関するものであった。鎖国令の公布(1639年)以前には南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が日本へ渡来して南蛮医学を伝えたが、これも内容的にはオランダ医学と同じだった。

オランダ医学を日本に伝えた主役は、長崎出島のオランダ商館の医師たちだった。1641(寛永18)年にオランダ商館が平戸から長崎に移転して以降、約200年間、ほぼ毎年1、2人の医師が来任した。その人数は63人に達するが、初期のライネ、ケンペル、中期のツンベルグ、後期のシーボルト、モーニケらは、とくによく知られている。

商館の医師の本来の職務は、商館員の健康管理にあり、館外に出て一般の日本人を診療したり、交遊することは禁じられていたが、それでも時には公に許可を得て日本人を診療したり、日本人医師たちの質問に答えたりしていた。

これが特に目立つのは、オランダ商館長の一行が毎年1回(のちには5年に1回)江戸参府を行った時で、江戸への道中、または江戸滞在中の旅館で、商館長らの一行と問答を交わした日本人学者は少なくない。

このことが蘭学者たちの蘭学に対する関心をいっそう募らせ、ついには新しい知識、なかでも西洋医学の知識を得るために、長崎へ赴き、ツテを求めて商館の医師に教えを請う者がしだいに増加していった。

日本最初の西洋医学書の翻訳書『解体新書』の出版(1774年)を契機に、オランダ語医書の日本語翻訳は相次いで行われ、これが西洋医学の知識の普及に大きな力を示した。

なお、明治維新以後、明治政府が医学教育についてドイツ医学を範とすることを定めたため、オランダ医学はその地位をドイツ医学に譲った。

★解体新書★     
ドイツ人医師クレムスの「解剖図譜」のオランダ語訳「ターヘルアナトミア」を翻訳した医学書で、1774(安永3)年に出版された。この出版は単に医学にとどまらず、文化史上においても画期的な出来事であった。

これによって蘭学が始まったが、その事情は杉田玄白(1733-1817年)の「蘭学事始」に詳しい。翻訳には前野良沢(1723-1803年)が中心になり、杉田玄白中川淳庵(1739-1786年)、桂川甫周(1751-1809年)ら数人が参加した。

本書は本文が四冊、序文・凡例・付図で一冊の合計五冊からなる。付図は小田野直武(1749-1780年)が描いた。小田野は秋田藩角館の人で、1773(安永2)年に秋田に来た平賀源内から初めて洋画の手ほどきを受け、数ヶ月後に上京した。このとき杉田玄白から解体新書の付図の制作を頼まれた。小田野は洋画史においても秋田蘭画の開拓者の一人として名をとどめている。

    「解体新書」 



杉田玄白のことば
  「昨日の失敗はくよくよするな。明日のことで思いなやむな」


杉田玄白の本
  解体新書 (講談社学術文庫 (569))
  蘭学事始 (講談社学術文庫)
  杉田玄白集 (早稲田大学蔵資料影印叢書)
  杉田玄白 (人物叢書)
  杉田玄白―蘭学のとびらを開いた一冊の書物 (NHKにんげん日本史)

杉田玄白―蘭学のとびらを開いた一冊の書物 (NHKにんげん日本史)蘭学事始 (講談社学術文庫)