日本の夜明けのために   

高野長英

きょうは江戸時代後期の医者で蘭学者 高野長英(たかの ちょうえい、通称:悦三郎、本名:譲 ゆずる)の誕生日だ。
1804(文化元)年生誕〜1850(嘉永3)年逝去(46歳)。

仙台藩支藩、奥州水沢(現 岩手県水沢市)の留守家の藩医の家に生まれた。1813(文化10)年9歳の時 母方の伯父 高野玄斎の養子となった。新しい学問を修めることに強い関心を持ち、1820(文政3)年16歳の時 江戸に赴き日本最初のオランダ医学の先駆者 吉田長淑(ちょうけい)に師事し蘭医学を学んだ。この江戸生活で吉田長淑より優秀さを認められ、師の長の文字を貰い「長英」を名乗った。

その後1825(文政8)年21歳の時 長崎に赴きシーボルトの「鳴滝塾」で医学・蘭学を学び、いくつもの論文を書き、やがて“ドクトル”の称号を受け、塾で翻訳の教授を勤めた。1828(文政11)年の「シーボルト事件」で、多くの門人が捕まったが、たまたま旅行中だった長英は難をのがれた。
その後、蘭学塾を開こうと江戸に戻り、ここで渡辺崋山、小関三英らとともに国内外のさまざまな事象を研究する目的で「尚歯会(しょうしかい)」を興し、中心的な役割を担った。また町医者として庶民の声を聞き、多くの翻訳や著述活動も行った。
1839(天保10)年35歳のとき、幕府を批判した事で投獄された「蛮社の獄」では自ら北町奉行所へ出頭し捕らえられた。弁明する機会を得るためというよりは、やはりシーボルト事件での逃亡が心にあったようだ。年老いた母と妊娠したばかりの妻を残しての出頭はさぞ心残りだったに違いない。しかも、江戸追放と予想していたが、永牢(ながろう:終身刑)となった。

1841(天保12)年には、隠居していた第11代将軍 徳川家斉(いえなり)の死による特赦(とくしゃ)で、逮捕された仲間の多くは出獄したが、長英は残され、牢名主(ろうなぬし)にまでなった。
この間も獄中で洋書の翻訳を願い出ているが許可されなかった。

しかし、1844(弘化元)年6月 獄舎の大火(長英の放火と疑われた)に乗じて脱獄、郷里にいる老母との再会も果たした。硝酸で顔を焼き、沢三伯と変名し、妻子とともに生活しながら、逃亡生活を送った。1848(嘉永元)年 宇和島藩伊達宗城(だて むねなり)に請われ、またシーボルト門下の二宮敬作などの庇護もあって逃避を続け、この間、蘭学教授のかたわら、兵書の翻訳や御荘砲台の設計などの研究・実践活動を継続した。

1850(嘉永3)年46歳のとき、江戸の青山百人町(現 東京都新宿区)に潜伏したが、幕府に探知され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。自殺をしようとしたがその場では死なず、護送中にその傷が元で絶命した(役人に一方的に殴られ死亡したという説もある)。

江戸において勝海舟と会談した、或いは勝に匿(かくま)ってもらっていたという話も伝えられている。主著に1837年のモリソン号事件の際の幕府の異国船打払令を批判した『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。世界に目を向け、日本の夜明けのために生涯を捧げた。

高野長英は、蘭学を学ぶ町医者ということで、江戸時代の鎖国状態において国際的感覚に優れた人だったようだが、ちょっとした誤解から逮捕され、結局は自刃を余儀なくされてしまう。今から考えれば、惜しい人を亡くしたとなるが、当時の状況においては、世の中の大きな流れの中でどうしようもなかったということか。

企業においても、ちょっとしか意見の違いや誤解から、うらみ・ねたみの元を作ってしまう事があるが、人はそもそもそのような状況に陥りやすいものだと理解した上で、溝が深くならないうちに解消しておかなくてはいけない。早いうちなら、ちょっとした心遣いで解消できるはずだ。

◆尚歯会◆
年歯の高い人を尚(たっと)ぶ会という意味で、幕府の目をそらすために付けられたものだが、世人には「蛮学社中」と呼ばれていた。 

◎蛮社の獄◎
1837(天保8)年、米国船モリソン号が日本漂流民返還と通商のために浦賀沖に来航、幕府は異国船打払令に従って砲撃・撃退した。モリソン号はさらに薩摩でも砲撃を受け、やむなく中国のマカオに戻った。
長英らは中国で活躍した英国の宣教師で東洋学者 ロバート・モリソンが来航するものと誤解し、このような大人物を打ち払ったら国際的な大問題になるとして幕府の態度を非難した。この誤解はオランダ人の通訳が「米国船」を「英国船」と誤訳して、「近々、英国船モリソン号が日本に通商を求めて来航する」と幕府に報告したためだそうだ。いったい、長英らはこの極秘情報をどこから得ていたのか。

長英は1838(天保9)年、『戊戌夢物語』を、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』を著し、開港論を唱えた。この『戊戌夢物語』は、夢に託して諸外国の風俗文化を紹介し、その優れたところを賞賛、攘夷などをしないで西洋諸国と交際・貿易した方が望ましいと述べたものだ。『慎機論』は、日本が鎖国しているうちに世界は貿易で栄え、西洋の強国が日本にも押し寄せてきているから、時機を慎まなければ大変な事になる、と警告したものだ。

1839(天保10)年、老中 水野忠邦・幕府目付 鳥居耀蔵(ようぞう)ら反洋学派は、密貿易のため小笠原密航を企てたとして「尚歯会」の洋学者グループ崋山・長英・小関三英(こせき さんえい)ら洋学者26人を逮捕(蛮社の獄)、小関は自殺したが、取り調べが進むと罪状が当てはまらない事が明らかになり、政治批判の罪に変更され、崋山は国元蟄居(ちっきょ)、長英は江戸に永牢を言い渡された。
崋山は一年あまり謹慎していたが、ある時友人に送った手紙から藩主に迷惑がおよび、それを苦に1841(天保12)年 自殺した。

★捕縛された真相★
長英がかつて牢屋で一緒だった元一という者と町で出会い、長英が逃走の資金をせがみ、わざわざ自宅に案内し金を渡した。ところが元一は釈放を見返りに長英の探索を命じられていた奉行所の手先だった。
元一のような者は「うかみ(斥候、窺見)」と呼ばれ、日本では古くから制度としてあり、犯罪者の中で役立ちそうなものを放免し役人の下役に使用していた。



高野長英の本
  日本の名著 25 渡辺崋山/高野長英/工藤平助/本田利明
  高野長英全集 第5巻 砲家必読
  崋山・長英論集 (岩波文庫 青 25-1)
  鶴見俊輔集・続〈3〉高野長英・夢野久作
  高野長英 (岩波新書)
  脱囚高野長英 (春陽文庫)
  高野長英 (堂々日本人物史―戦国・幕末編)
  追われても追われても―高野長英 (日本史の目)
  吾妻の蘭学者たち―高野長英門下
高野長英 (堂々日本人物史―戦国・幕末編)高野長英 (岩波新書)鶴見俊輔集・続〈3〉高野長英・夢野久作