重厚剛胆で潔癖・無欲

大森房吉

きょうは地震計を発明した「日本地震学の父」 大森房吉(おおもり ふさきち)の誕生日だ。
1868(明治元)年生誕〜1923(大正12)年逝去(55歳)。

福井城下新屋敷百軒長屋で家禄は切米10石3人扶持の下級武士 大森藤輔の五男として生まれる。
兄弟が多く家計は貧困だった。1874(明治7)年5歳の時、旭小学校に入学するが、やがて上京、兜町 坂本小学校に転入し秀才としての評判をとった。

1890(明治23)年21歳で東京(帝大)理科大学物理学科に入学。ついで大学院で地震・気象学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者 ジョン・ミルン教授の指導を受けた。
1891(明治24)年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。
1894(明治27)年26歳の時、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す「余震の大森公式」を発表した。同年、ドイツ、イタリア等へ3ヵ年の留学をし、『地上と地中の地震の強弱関係(英文)』を発表した。

帰国後、1897(明治30)年29歳の時、東京帝国大学の教授(地震学)となった。濃尾地震を契機に文部省(現文部科学省)内に設置された「震災予防調査会」の幹事を長らく務め日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。

1898(明治31)年31歳の時に世界初の連続記録可能な地震計「大森式地震計」を開発した。翌年、初期微動の継続時間から震源までの距離を決定できることを示す「震源距離の大森公式」を発表した。
1901(明治34)年33歳の時、「万国地震学協会」設立委員、1906(明治39)年38歳で帝国学士院会員に推挙された。

1905(明治38)年37歳の時、同じ講座の助教授 今村明恒が、今後50年以内に東京で大地震が発生することを警告し対策を迫る記事を雑誌「太陽」に寄稿。この記事は新聞に大きく取り上げられて社会問題になった。
大森は震災対策の必要性は理解を示したが、社会に混乱を起こすことを恐れ、その記事を根拠の無い説として退けた。

大森が出版した研究報吉、学術論文は200篇以上と精力的に活躍した。インドのラホール、米国サンフランシスコ、アフリカのアグラ等の地震を視察して、実証的、科学的研究を進めた。国内の桜島浅間山等の噴火でも現場で助言を与え、これらをまとめて『地震学講話』を出版するとともに、「震災予防調査会」を設立主宰して、国内の地震予知に努力した。

1923(大正12)年9月55歳の時、太平洋学術会議出席のためオーストラリアに出張中、「関東大震災」が発生した。大森はちょうどシドニーのリバビュー天文台でこの地震地震計に記録されているのを見た。急遽帰国する船中、病魔に倒れて入院。我が国地震学研究の第一人者だった大森博士の回復を、時の首相 山本権兵衛も見舞って祈ったが、同年11月、逝去した。

大森の業績は、当時の地震学会の全てに及んだが、中でも「大森式地震計」の発明は有名であり、1965(昭和40)年代まで各地の気象台で使用されていた。また、我が国の地震発生の頻度からくる火山国・地震国の実証的・科学的研究に一生をかけた大学者であった。

大森の性格は、重厚剛胆で潔癖・無欲スウェーデンノーベル賞委員会から受賞審査論文の提出を誘われたが、多忙のため応えなかった。

大森房吉は、関東大震災を予測しながらも社会の混乱を予防するため発生しないというが、結果としては発生してしまう。それも外国で知り帰国中に倒れてしまうという悲運が起こった。

企業においても、将来の社会状況を予測するが、この予測は人が関係しているだけに地震の予測より難しいかもしれない。しかし経済においても何らかの兆候はあるはずだし、過去からの変化を敏感に捉えれば、予測はある程度可能である。
経済は方向さえ大幅に狂わなければ、あまりに先の未来を予測する必要はない。基本は、人の行動心理を知ることから始まる。


       大森式地震


大森房吉に関する本震度を知る―基礎知識とその活用
  震度を知る―基礎知識とその活用
  地震観測のし方 (グリーンブックス 135)
  地震予知 (中公新書 376)