自分の好きな道を   

蜀山人

きょうは江戸時代の文人狂歌師 蜀山人(しょくさんじん)の誕生日だ。
1749(延享6)年生誕〜1823(文政6)年逝去(74歳)。
本名:大田南畝 (なんぽ)、通称:直次郎、号:蜀山人狂歌名:四方赤良 (よものあから)、戯作名:山手馬鹿人 (ばかひと)、狂詩名:寝惚 (ねぼけ)先生。その他、杏花園、玉川漁翁、石楠齋と多くの名を持っていた。

天明年間(1780年代)、「天明狂歌」という文学上の大流行現象があった。この天明狂歌を盛り上げたのは、ひとりの武家の青年だった。この青年は中国の「詩経」をすべて覚えていたと噂され、漢詩の天才でもあった。しかし彼、蜀山人は、笑いの文学に身を投じたのだ。
 狂歌:歌の形をとりながら、それをひっくりかえし、笑いを呼び起こす文学のこと。

蜀山人は江戸の貧しい下級御家人の子として生まれた。
幕臣として幕府に仕えていた。学問を好み狂歌や狂文に優れ、当代切っての秀才であった。19歳の時に作った狂歌や狂文が評判になり、平賀源内にも認められ、狂詩文「寝惚先生文集」を出版して大いに愛読された。また、狂歌会に加わって頭角を現し「山手連」を形成して狂歌会の第一人者となり、江戸における狂歌流行のさきがけとなった。その後、狂歌師の朱楽管江(あけらかんこう)と共編で「万載狂歌集」を出すと、流行はさらに盛んとなっていった。

彼は、奇知奇行に富み、狂歌の作品で賄賂で動く幕臣の腐敗を攻撃するなどして、江戸町民の共感を得て愛されていた。また、洒落本や、黄表紙なども書き江戸文化に大きな影響をあたえている。
 黄表紙:洒落と風刺を織り混ぜた絵入りの簡単な本で黄色の表紙だった。

寛政改革の嵐が吹き飛ぶなかにもかかわらず、彼は駄洒落が大好きで、もって生まれたギャグ大好きな性格が災いした。何と徳川家康が築いた神聖なる江戸城の中で駄洒落を連発してしまったために、一時大坂、長崎へ左遷されてしまった。そして、彼ほどの逸材が、ついに出世の道を断たれてしまった。
その後、身を慎んで、1794年45歳の時に湯島聖堂での学問吟味(今の公務員試験)を受験し、首席で合格した。そして、幕臣としての公務に専念し、70歳を過ぎる頃まで勤務を続けた。

そのかたわら「一話一言」をはじめ多くの随筆を書き、持ち前の鋭い風刺や皮肉を示した。彼は、和漢に通じた学才で、狂歌のみならず、漢詩文、戯作、随筆などに爛熟の江戸中期第一等の文人として才筆をふるわせた。
彼は、幕府内での出世よりも、自分の好きな道を歩みたかったのではないか。

彼は、日本で初めてコーヒーを飲んだ人と言われている。コーヒーの味については「紅毛船にてカウヒイといふものを飲む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるにたまわらず」と、あまりおいしく思わなかったようだ。

企業においても、ユーモアに富んだ明るい人がいると職場の雰囲気が良くなるが、少し間違えると、イヤミや皮肉ひいては特定個人の中傷となってしまうので、気をつけなくてはいけない。どんなときでも、明るく元気にふるまうことで力がわいてくる。


蜀山人狂歌
  「世の中に か(蚊)ほどうるさきものはなし
            ぶんぶ(文武)といひて 夜もねられず」
  「今までは 他人(ひと)が死ぬとは 思ひしが
            俺が死ぬとは こいつぁたまらん」


蜀山人の本
  大田南畝全集〈第1巻〉狂歌・狂文・狂詩 1〜(第21巻)
  一話一言 (日本随筆大成)
  蜀山人 狂歌ばなし―江戸のギャグパロディーの発信源
  蜀山人の研究  
  寝惚けて居り候―蜀山人の生きざま源内の死にざま
  大田南畝・蜀山人のすべて―江戸の利巧者 昼と夜、六つの顔を持った男
  蜀山残雨―大田南畝と江戸文明  
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