力を発揮する場を   

賀茂真淵

きょうは国学者歌人国学四大人(しうし)の一人 賀茂真淵(かもの まぶち)の誕生日だ。1697(元禄10)年生誕〜1769(明和6)年逝去(72歳)。

遠江(とうとうみ)国 敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(現 静岡県浜松市)に生まれる。生家は京都賀茂神社の賀茂家の末流、岡部家。父は岡部新宮の神官 定信であり、母は徳川家と関係の深い名家 竹山家の出だった。浜松の杉浦国頭(くにあきら)や森暉昌(てるまさ)らに国学や和歌を学び、太宰春台一派の渡辺蒙庵(もうあん)に漢詩を学んだ。

姉婿 政盛の養子に出されたあと、政盛の兄 政長の養子となり、政長の娘を妻とした。1724(享保9)年27歳の時、妻の死によって実家へ帰るが、翌年、浜松の脇本陣 梅谷家の養子となった。学問好きがこうじて、実父の死後、1733(享保18)年36歳のとき上洛し、国学者 荷田春満(かだのあずままろ)に入門した。1736(元文元)年、春満の死去により、翌年 単身で江戸に移り、春満の弟 信名らの助力により歌文を教えるようになった。ここで加藤枝直や青木昆陽と交わった。この頃 契沖(けいちゅう)にも影響を受けている。

学業の研鑚を積み学名もあがり、しだいに門下も増えていった。1746(延享3)年49歳の時、荷田在満の推挙により、八代将軍徳川吉宗の次男 田安宗武(たやすむねたけ)の庇護を得て、田安家和学御用として仕え、古典研究に専念し、荷田派の国学と契沖の文献学とを融合した独自の学問を樹立した。この頃から真淵を称している。

真淵は「万葉集」への傾倒を深め、当時の歌壇に清新な刺激を与え、万葉風の和歌を復興した。1749(寛延2)年に「萬葉解通釈」、1757(宝暦7)年に「冠辞考」を著した。田安家を辞して隠居した1760(宝暦10)年、「萬葉考」を完成。「ますらをぶり」を中心とするその万葉論は、近代にまで決定的な影響を与え続けた。

1763(宝暦13)年66歳の時、伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長(もとおり のりなが)が訪れて一日入門し、その後 絶えず文通で真淵の教えを受けた。
真淵は、本居宣長をはじめ、“県門(けんもん)の四天王”と呼ばれた、橘千蔭(たちばなのちかげ)、村田春海(むらたはるみ)、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(かとううまき)等、多くの優秀な門人を養成した。その一派は真淵の屋号 県居(あがたい)に基づき県門と称され、国学および歌壇に大きな位置を占めた。

1764(明和元)年、「歌意考」完成。翌年には「初学(うひまなび)」「新学(にひまなび)」「国意考」、1768(明和5)年には「語意考」を完成させ、同年 病没。
真淵の著述は、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあり、“国学の四大人(こくがくのしうし)”のひとりとして称えられている。
国学の四大人:荷田春満(1667〜1736)、真淵、本居宣長(1730〜1801)、         平田篤胤(あつたね、1776〜1843)

真淵は「契沖(けいちゅう)先生によって開墾せられた畑に、荷田先生が種を蒔(ま)かれた国学を、収穫まで仕上げるのは自分の責任である」と言っていた。真淵の学問は、契沖の実証性と春満の思想性を受け、万葉集中心の注釈的研究の上に立ち、万葉歌風とその精神を把握し、古代精神の特質、古道の精髄を明らかにするところにあった。
「真淵の前に真淵なく、真淵の後に真淵なし」といわれている。

真淵も他の偉人と同じように、秀才であったことに加え、いろんな人との出会いで、その力を発揮する場を与えられている。そして多くの優れた門人を養成している。
現代はマスメディアが発達し、いわゆるIT化が猛烈に進化しているが、やはり人間は、顔を合わせて話をしたり議論したり、時には喜怒哀楽をぶつけ合ったりすることが大切だ。その場の雰囲気というか空気を共有し共感することが重要なのだ。


賀茂真淵の本
  語意/書意 (岩波文庫 青 37-1)
  影印本シリーズ 影印本 万葉新採百首解
  賀茂真淵とその門流
  賀茂真淵 (人物叢書)
  賀茂真淵門人の万葉集研究―土満・魚彦 (万葉叢書 (4))
  賀茂眞淵歌集の研究


   
   荷田春満          本居宣長          平田篤胤