職人世界の業を究めた人

西岡常一

きょうは法隆寺薬師寺法輪寺を復興させた「最後の宮大工」 西岡常一(にしおか つねかず)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕〜1995(平成7)年逝去(86歳)。

奈良県生駒郡法隆寺村西里に、明治以来 法隆寺に仕える宮大工棟梁 西岡楢光の長子(三代目)として生まれる。
法隆寺の棟梁をつとめた祖父の常吉に小学校に入る前から仕事を仕込まれた。1924(大正13)年16歳の時、木を育てる土を学び生駒農学校卒業、1925(大正14)年17歳の時 大工見習から宮大工、棟梁への道に進んだ。

1934(昭和9)年26歳の時から始まった法隆寺の「昭和の大修理」で、世界最古の木造建築の金堂や五重塔の解体修理に携わった。
西岡はこれを「天運」、時代の巡り合わせだと言う。法隆寺には最古の飛鳥建築から、天平・藤原・鎌倉・室町・江戸の建築様式が全て揃っていて、各時代の日本建築の特徴を学ぶ幸運に巡り合った。

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公平に国家のためを思えば

伊藤博文

きょうは明治維新の立役者で第1・5・7・10代首相 伊藤博文(いとう ひろぶみ、幼名:利助・俊輔、号:春畝)の誕生日だ。
1841(天保12)年生誕〜1909(明治42)年逝去(68歳)。

長州・周防(すおう)国熊毛郡束荷(つかり)村(現 山口県熊毛郡大和町)字野尻に生まれた。父は長州藩軽率 伊藤直右衛門の庸人 林十蔵、母は琴子。家が貧しく、12歳頃から奉公に出された。「利助のひょうたん、青びょうたん、酒飲んで赤くなあれ」といわれるほど顔色が悪かった。

14歳の時、父 林十蔵が伊藤家の養嗣子となって最下層の士分となり、伊藤姓を名乗った。
1856(安政3)年15歳の時、藩命で相州浦賀警衛に出役した際、来原良蔵に見出され、その紹介で松下村塾に学び、高杉晋作らと尊王攘夷運動に身を投じた。

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筆を折って故郷に骨を埋める

白井喬二

きょうは明治から昭和の小説家で「大衆文学の父」 白井喬二(しらい きょうじ、本名:井上義道)の誕生日だ。
1889(明治22)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(91歳)。

神奈川県横浜市の公舎で鳥取藩士の父 孝道・母 タミの長男として生まれた。当時父は警察官吏として横浜市に奉職中であった。父は晩年、鳥取県の郡長として人々から人格郡長といわれるほど信頼の厚い人だった。
白井は、父の感化を受けたところが多かった。

父の勤務のため東京 青梅(おうめ)、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902(明治35)年13歳の時、米子市の角盤(かくばん)高等小学校に転入した。
ここで下級生の生田春月が発行していた雑誌に『鳩小屋』という作品を寄稿した。

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凛とした厳しさと高い気品

鏑木清方

きょうは明治・昭和の日本画鏑木清方(かぶらき きよかた、本名:健一)の誕生日だ。
1878(明治11)年生誕〜1972(昭和47)年逝去(93歳)。

東京神田佐久間町に生まれる。父は戯作者で「東京日日新聞」「やまと新聞」の創始者でもあった條野採菊(じょうの さいぎく)。多才な父の影響を受け、幼少期から文学や芝居に親しんだ。1889(明治22)年11歳の時、東京英語学校に入学した。1895(明治28)年17歳の時、母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。

1891(明治24)年、挿絵画家としても名のあった水野年方に師事し挿絵画家を志した。1893(明治26)年、年方より「清方」の雅号を授かった。後に、新聞に挿絵を描きはじめ、泉鏡花尾崎紅葉島崎藤村など多くの著名作家たちと交わり、その口絵や挿絵を描いて活躍し、挿絵界では早くから名声を得た。

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最も革命的なツール

モークリー

きょうは世界初の汎用コンピュータを発案したアメリカの技術者 ジョン・モークリー(John William Mauchly)の誕生日だ。1907(明治40)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(72歳)。

米国オハイオ州シンシナティーで生まれた。父は物理学者で学問的な環境で育った彼は、早熟で好奇心の旺盛な子供だった。5歳の時に電球と電池で懐中電灯を作り、友達の家の屋根裏部屋を探検しようとした。友達の母親は、モークリーが作った装置が火事を引き起こすのではないかと心配し、彼から懐中電灯を取り上げ、かわりにロウソクを持たせたとか。

父親の影響を受け、1925年18歳の時ジョンズ・ホプキンス大学工学部に入学したが、物理学に鞍替えした。1932年25歳の時に物理学の博士号を取得した。

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穏健な自由主義者として

大内兵衛

きょうは大正・昭和の経済学者 大内兵衛(おおうち ひょうえ)の誕生日だ。1888(明治21)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(91歳)。

兵庫県淡路島に生まれた。旧制五高を経て1913(大正2)年25歳で東大経済学部を卒業、いったん大蔵省に入省し2年間ニューヨークに勤務するが、1919(大正8)年31歳の時に退職し、母校東大の財政学助教授となった。

同年末、兵衛が編集発行人の『経済学研究』創刊号に、同大助教授 森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載した。
同大教授 上杉慎吉や天野辰夫ら右翼団体興国同志会がこれを危険思想として宣伝、罷免を要求した(森戸事件)。

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辛辣、かつ風刺に満ちた

杉村楚人冠

きょうは随筆家、俳人でもあるジャーナリスト 杉村楚人冠(すぎむら そじんかん、本名:杉村廣太郎)の誕生日だ。
1872(明治5)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(73歳)。

和歌山県にて旧和歌山藩士 杉村庄太郎の子として生まれる。1875(明治8)年3歳の時、父と死別し、以来、母の手で育てられた。16歳で和歌山中学校を中退、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)で学ぶが、これも中退した。

アメリカ人教師イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890(明治23)年18歳で卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われた。
1891(明治24)年19歳にして「和歌山新報社」主筆に就任するが、翌1892(明治25)年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学した。

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