やはり迷っている

湯木貞一

きょうは日本料理店「吉兆」を主宰した日本料理研究家 湯木貞一(ゆき ていいち)の誕生日だ。
1901(明治34)年生誕〜1997(平成9)年逝去(95歳)。

神戸の料理屋「中現長」の一人息子として生まれる。尋常高等小学校を卒業後、家の方針で上級学校への進学は許されず、15歳から料理修行を始めた。このまま人参などを相手に生涯を捧げてよいのだろうかと葛藤していた、24歳のとき、松平不昧(ふまい:風流茶人として有名な松江藩七代藩主)の「茶会記」を読み、その懐石料理の季節感にふれて感動を受け、料理を一生の仕事とする決意をした。

1930(昭和5)年29歳のとき「中現長」を離れて、大阪新町で鯛(たい)茶漬け専門の「御鯛茶処 吉兆」を開店し、これが現在の「吉兆」グループの創業となった。開店の際、町絵師の先生が商売繁昌を願って大阪の今宮神社十日戒「吉兆笹」にちなんだ屋号を考えてくれた。
店の繁盛や戦禍の為に店は転々とするも、贔屓(ひいき)の客は離れなかった。それどころか、良い不動産を斡旋したり、良い条件で資金提供したり、彼の才能に惚れて支持する人々が絶えなかった。企業用の接待と言うことを考慮して個室はあるが、料亭との差別化を計るため畳席は無いようだ。

湯木は、茶の道にひかれ、1937(昭和12)年36歳の時に表千家の門を叩き、本格的に茶道の勉強を始めた。
茶の湯の真情に根ざした料理は、季節を味わい、しつらえの演出が工夫され、「日本料理界は『吉兆』という風が吹いている」ともいわれた。

ついに1961(昭和36)年60歳の時に東京進出を果たし、国賓クラスの外国人に日本料理を供する店に育て上げた。懐石料理にその味と趣向を極め、気品のある日本料理は世界に誇るものとして、湯木は「世界の名物 日本料理」を提唱した。

戦後まもなく、ベーコンや牛肉、アスパラガスなどの新しい素材を取り入れ、松花堂弁当を考案するなど、つねに創造をつづけた。その一方で、「食の基本と最高の料理は家庭にある」とし、『暮らしの手帳』誌上の約二十年にわたる連載や「吉兆味ばなし」の刊行により、「吉兆の手のうちも、洗いざらい」披露してしまうのは、湯木の自信とともに、何とか日本料理を守り育てようとする意志だ。

こうした躍進を支えたのはもちろん彼の料理であるが、飲食に茶道の趣向を取り入れ、器も客室の設えも含めて、五感で味わう料理を演出している点である。懐石での工夫も如何に季節を楽しむかに集約されている。

湯木の美意識の発露である美術品収集も有名だった。店の儲けは殆ど美術品に注がれ、これを店のもてなしでどんどん使った。それが彼なりの社会還元だった。茶の湯の道具を中心とした作品は大阪の「湯木美術館」に所蔵、公開されている。
1988(昭和63)年、料理界では初めての文化功労者の顕彰を受けた。

湯木貞一は、家業を継いで料理の道に入るが、修行中にはやはり迷っている
ここで出会ったのが「茶会記」という一冊の本であり、これにより日本料理をめざそうと決意している。

仕事においても、いつまでも悩みは尽きないものだが、いかに早い時期に自分の進むべき道を見出し、それに向けてスタートするかだ。そのきっかけは、一冊の本、先輩や友だちのアドバイス、偉人のことばなどいろいろだが、結局は自分で決意しなければならないと言うことだ。


湯木貞一に関する本
  吉兆味ばなし (1)〜(4)
  吉兆 料理花伝
  吉兆 湯木貞一のゆめ
  卒寿白吉兆
  味吉兆で学んだ日本料理
  吉兆の家庭ふう料理―春夏・秋冬
  図解「吉兆」仕込み庖丁さばきの極意 (講談社SOPHIA BOOKS)
  吉兆
図解「吉兆」仕込み庖丁さばきの極意 (講談社SOPHIA BOOKS)吉兆の家庭ふう料理―春夏・秋冬吉兆 湯木貞一のゆめ吉兆味ばなし (1)