ますます闘志を燃やして

森永太一郎

きょうは日本の西洋菓子の先駆者で森永製菓を創業した 森永太一郎(もりなが たいちろう)の誕生日だ。
1865(慶応元)年生誕〜1957(昭和32)年逝去(71歳)。

肥前国伊万里(現 佐賀県伊万里市)に父 常次郎・母 キクの長男として生まれた。
森永家は焼き物や魚類を商う卸問屋で祖父 太兵衛の代までは伊万里でも有数の商家だったが、家運が傾き、父が若くして亡くなったため、財産もすっかり人手に渡ってしまった。

母 キクはわずか6歳の太一郎を連れて、伊万里の町から約3.5キロほど北の実家へ帰った。母 キクの生家である力武家も、もとは裕福な農家だったが、人に貸した金が取れなくなったのが原因で没落していた。
その上、母が再婚することになり、太一郎はひとりぼっちになってしまった。
そんな太一郎に、深い愛情を注いでくれたのは祖母のチカだった。あるとき太一郎は、拾った金を隠し持っていたのをこの祖母に見つかり、自分で働いて金もうけをすることの大切さを懇々と諭された。この教えは、生涯 太一郎の心に生き続けた。

その後、太一郎はチカのもとばかりにいるわけもいかず、伯父や伯母の家を転々とした。そのころ、川久保雄平という人が、本屋のかたわら塾を開いていた。太一郎は伯父たちの世話で店員として住みこみ、夜勉強を習った。

そのとき太一郎は12歳だったが、このころまで読み書きができなかった。太一郎の熱心さは目を見張るばかりで、わずか一年ほどの間に学問はめきめき上達し、先生に代わって講義をするほどになった。

やがて太一郎は、伯父 山崎文左衛門に引き取られた。「これで、お前がすきなように商売をしろ」、文左右衛門はそう言って、天秤棒とざるに桶、それに五十銭を太一郎にくれた。文左衛門は行商人から焼き物問屋の大商人に成功したほどの人で、太一郎にも自力で商売を覚えさせようとした。

数日後、天秤棒をかつぎ、大声でコンニャクを売り歩く少年の姿が見られるようになった。ある日、コンニャク屋の主人が、「品は落ちるが、見かけは変わらない。安く卸してやるからこれを売ってみろ。もっともうかるぞ」と少年にすすめた。

少年は「もうけは多くても、悪い品物は売りたくありません」といってきっぱりと断った。その少年こそ「粗悪な品を商ってはならぬ」という伯父の教えを子供のころから身につけた太一郎だった。

太一郎が本格的に商売の勉強を始めたのは、1879(明治12)年、14歳のころだった。伊万里一の大商店「堀七」に奉公し、ここで主人の太兵衛から商売人になるための多くのことを学んだ。

しかし、太一郎は、もっと広い舞台で経験を積みたいという希望をおさえきれず、横浜に出て、陶器の貿易商「有田屋」に勤めることになった。
太一郎は田舎者でまだ15歳だったが、持ち前の根性と才覚ですばらしい業績を上げた。東京の大問屋を相手に伊万里焼を売りさばき、当時の金で毎月2万円もの驚くべき商いをやってのけた。

主人から大事にされた太一郎が、その世話で鎌倉の小坂セキと結婚したのは1884(明治17)年、19歳の時だった。

ところが、その幸運も長くは続かず、有田屋は破産した。収入源の亡くなった太一郎は九谷焼の貿易商の店員となり、焼き物を売り込むためアメリカに行くことにした。太一郎、22歳のときだった。長女が生まれていたが、妻のセキは快く渡米を見送ってくれた。

しかし、アメリカでの商売は思うようにはいかず、さすがの太一郎も落胆の毎日だった。ある日、サンフランシスコの公園のベンチにすわって考え込んでいた。
そこへ、60歳くらいの上品な顔立ちの婦人が、軽く会釈して太一郎と肩を並べた。その婦人は、膝の上のハンドバッグからキャンデーを取り出すと、その一つを太一郎に差し出した・・・。

素直に婦人の好意を受けた太一郎は、そのキャンデーの美しい包装紙をむいて頬ばった。とろりとした甘味が口中にひろがり、思わず『うまい!』と叫ぶように言った後で、心にこう決めた。『洋菓子の職人になろう!』

「日本の子供たちも、きっと喜ぶにちがいない」、電撃のようなひらめきが太一郎を奮い立たせた。「人生は出会いで決まる」という言葉があるが、言うまでもなく、この出来事は、太一郎の人生を決めただけでなく、日本の菓子業界の歴史をも決定づけた、といっても言い過ぎではない。

さっそく太一郎は菓子工場を探してかけずり回った。
しかし、日本人を雇ってくれる会社はどこにもなかった。生きていくためには、しかたなく農園やホテル、邸宅などを転々として力仕事をするよりほかなかった。

オークランドの老夫妻の家に流れ着いた太一郎は、今までのアメリカ人の家とは異なり、差別なくわが子のように可愛がってくれるこの夫妻に驚いた。
そして、夫妻が信仰するキリスト教に興味をおぼえ、近所の教会の門をくぐり、キリストを信じ、洗礼を受けるに至った。

信仰を得た太一郎は直ちに帰国し、故郷伊万里でキリストの救いを説いたが、誰も聞こうとはしなかった。伝道に落胆した太一郎は、「菓子職人になるのが神の御旨」と悟り、再び渡米。願いが神に通じたのか、幸いにも洋菓子修行の道が開かれ、その勤勉さのゆえに、名物男となった。

そして、パンやケーキの作り方を身につけたい一心から、昼も夜も働き続けた。白人の職人からはひどい差別を受けたが、ますます闘志を燃やして頑張った。

洋菓子の製法を身につけた太一郎が日本へ帰ってきたのは、1899(明治32)年6月で、すでに33歳だった。その年の8月、東京赤坂に念願の「森永西洋菓子製造所」が誕生した。わずか二坪のちっぽけな工場だったが、太一郎はマシュマロ作りに熱中した。日本での太一郎の菓子製造がついにスタートした。

ところが、お菓子は上出来なのに、なじみのない西洋菓子を売ってくれる店は一軒も見つからなかった。そこで太一郎は、外から見えるようにガラス戸で囲んだ箱車を思いつき、お菓子を積んで売り歩くことにした。やがて車のあとから、ぞろぞろと子供たちがついてくるようになった。

不眠不休で工夫に工夫、改良に改良を重ね、箱車で営業に奔走、ようやく銀座や横浜の店にも商品を置いてもらえるようになった。誠実な仕事ぶりが、太一郎の評判をますます高め、宮内省への納入、新工場の建設にも漕ぎ着けた。

また、大きかったことは、松崎半三郎というクリスチャンの片腕を得たことだった。このクリスチャンコンビは、小さい菓子商店を、株式会社へと発展させていった。

天使の子供が翼を広げた森永の「エンゼル・マーク」は、1905(明治38)年に商標登録し、「おいしくて栄養のあるお菓子を日本の子どもたちにも食べてもらいたい!」という太一郎の願いを表している。1910(明治43)年 株式会社森永商店を設立、1912(大正元)年 森永製菓株式会社に改称した。

1914(大正3)年にポケット用ミルクキャラメルを発売、爆発的な人気を博した。1916(大正5)年、日本初の板チョコ発売。1919(大正8)年には、わが国で初めて工場従業員の労働時間を1日8時間制とした。1921(大正10)年、日本最初の育児用粉乳発売した。

森永のお菓子は、エンジェルの翼に乗って売れに売れ、太一郎は「キャラメル王」「製菓王」とたたえられるようになった。彼の夢はみごとに花開いた。
1935(昭和10)年、社長のポストを松崎に譲り、69歳で引退、伝道活動に入った。1937(昭和12)年 家族に見守られる中、賛美歌を口ずさみながら亡くなった。

森永製菓の創業の心は、太一郎の信仰心にあった。恵まれない幼少年期を経て一旗揚げようと渡米。困窮のどん底で老夫婦の慈愛に触れ、熱情的なキリスト教信者となる。洋菓子製造を天職に定め、足掛け12年、不眠不休で製法を学んでの帰国後、西洋の「新しい味」の大衆化に成功した。「エンゼル・マーク」は森永の誓いのあかしでもある。

社会生活おいて、「人との出会い」や「信仰」は人生を決めることになる場合がある。しかし、それはいつもプラス方向であるとは限らない。人の出会いや信仰により、人生を見誤った人も多くいるので気をつけなければならない。


森永太一郎の本
  森永太一郎青春伝 (ヤングジャンプコミックス)
  菓子づくりに愛をこめて―お菓子の王さま・森永太一郎 (PHP愛と希望のノンフィクション)
  菓商―小説 森永太一郎 (徳間文庫)
  チョコレート百科 (ミニ博物館)
菓子づくりに愛をこめて―お菓子の王さま・森永太一郎 (PHP愛と希望のノンフィクション)