何の装飾も施されずに

グスタフ・マーラー

きょうはオーストリアの作曲家 グスタフ・マーラーGustav Mahler)の誕生日だ。
1860(万延元)年生誕〜1911(明治44)年逝去(50歳)。

チェコプラハオーストリアのウィーンの中間イグラウ近郊のカリシュトで、裕福なユダヤ系商人の家に生まれる。父は酒類製造業者のユダヤ人ベルンハルト・マーラー、母は石鹸製造業者の娘でユダヤ人のマリーで、子供はグスタフも含めて14人いた。グスタフは第2子だが、半分の7人は病気で成人になる前に死亡した。

少年時代のマーラー一家は、決して普通の家庭ではなく、勉学熱心だが分裂気質で暴君のように振る舞った父と、同じく分裂気質ではあったが夫に暴力を振るわれるままであった母、幼くして死んでいった兄弟達など、かなり凄惨な家庭だった。ユダヤ人としての疎外感を感じながら、グスタフはその悲惨な現実から逃れるように音楽の世界にのめり込んでいった。
幼い頃から卓抜した音楽的記憶力を持ち、それを見出した父親の期待を受けてピアノから音楽教育を受け始めた。イーグラウのグスタフは、演奏のアルバイトをしながら近くのギムナジウム(高等学校)で、文学等の基本的な学問を学んだ。

このころ、実家の酒屋の客やアルバイト先で聞いた各地の民謡、当時イーグラウに駐留していたオーストリア軍の兵舎ラッパの音と軍楽隊の演奏、イーグラウの豊かな自然から出てくる鳥の鳴き声や家畜の鈴の音などが、グスタフの心に深い感銘を与え、後の音楽に多大な影響を与えている。

グスタフは2歳のとき、すでに数百の民謡と兵士の歌などを覚えていた。また、ギムナジウムや実家の書斎でグスタフが読んだ文学書の数々も、グスタフの後の音楽の持つ文学性に大きな影響を与えた。

1975年15歳の頃、ボヘミア地方のある富農がグスタフのピアノ演奏を聴いて、非凡なまでの音楽の才能を認め、当時国内最高の音楽教育機関であったウィーン楽友協会附属音楽院での教育を受けられるように援助を申し出た。父親もこれを快諾し、グスタフは帝都ウィーンへの切符を手にした。

グスタフはウィーンで3年間みっちりと音楽の基本を学んだ。ここで初めて正式に作曲を学んだ。学校への出席率はあまり良くなかったが、成績は極めて優秀だった。現存する最古の作品ピアノ五重奏断片などはこの頃の作品で、ピアノと作曲の賞を受けた。

並行してウィーン大学の史学、哲学及び音楽史の講義にも出席し、自然科学にも興味を持つなど多彩さを示した。作曲の根幹を支えた文学や哲学はこのころからの勉学を下敷きにしている。

ワグナーの影響が強かったのもこのころであるが、歌劇作曲はいずれも完成されることなく破棄された。1877年17歳の時、ブルックナー音楽理論講義に深く感銘を受けてのち、両者には師弟以上の親密な友情が結ばれる事になった。マーラー初の出版譜であるブルックナー3番ピアノ版はこの友情の成果だ。

卒業後も作曲を続けるが、生活苦からハレ歌劇場の夏期シーズンの指揮者の地位についた。だが満足いく状況ではなかったようで、秋冬はウィーンでピアノ科教授の傍ら作曲活動を続けた。

作品番号1「嘆きの歌」は楽劇として着手され、カンタータ風に改作されたもので、ブラームス主宰の審議会で即時拒絶され自信喪失した。1881年21歳の時、ライバッハ(現 スロバキア共和国国境付近の町)の州立歌劇場でシーズン指揮者としての職についた。1883年バイロイトで「パルジファル」を聴き強い影響を受け、これが「さすらう若人の歌」、さらに「復活」の作曲のきっかけとなった。

グスタフは指揮者としての名声が高まり、1885年25歳の時にはバイロイト音楽祭の合唱指揮を依頼されるまでになった。1885年7月ライプツィヒ市立歌劇場で1ヶ月の試験契約の後、翌年から副指揮者となった。

掛け持ちでプラハに赴いたときのケルビーニ「水運び人」の指揮が大成功を収め、即座に実質的な主任指揮者となった。ここでベートーヴェンモーツアルト、ワグナーを初めとする数多くの指揮経験を積み、その多忙の最中、第一交響曲「巨人」に着手した。

1886年26歳の時、ライプツィヒで正指揮者ニキッシュのもとに生涯の友情を結んだ。以後苦難の中でも指揮者としての名声が高まり、1888年28歳の時 正指揮者の職を求め赴いたブダペスト王立歌劇場の改革とその成功が世間的にも認められ、初めて経済的安定をもたらした。

ドン・ジョバンニの指揮をブラームスが絶賛し、「完全なジョバンニを聴きたいのならハンガリーの首都ブタペストへ行け」と言った。1889年11月29歳の時、完成した第一交響曲交響詩として初演したが、1891年新しい歌劇場監督との確執でドイツのハンブルクに拠点を移した。

精力的な指揮活動をハンブルグで続け、チャイコフスキースメタナヴェルディプッチーニなど当時の新作を相次いで上演。「エウゲニ・オネーギン」の指揮はチャイコフスキーに絶賛された。ブラームスチャイコフスキーマーラーの作風に影響を与えているといわれる。

1892年夏季32歳の時にはロンドン公演も行った。さらに第二交響曲「復活」の作曲も続け、シュタインバッハにて完成した。「子供の不思議な角笛」にも着手した。
一方ハンブルク楽友協会で指揮棒をとっていたハンス・フォン・ビューローと知己になり、認められて代理及び後継指揮者となった。ビューローはほどなく1994年に死去、マーラーはその葬儀より受けたインスピレーションを「復活」の終楽章に託している。

リヒャルト・シュトラウスマーラーのよきライバルだった。既に輝かしい作曲の才を認められ指揮者としても第一人者とみられていたシュトラウスに対して、マーラーも作曲の名声を得るべく多忙な指揮活動の合間をぬい筆を進めた。1895年3月リヒャルト・シュトラウスベルリン・フィルで「復活」の初演を行った。前年には1番を指揮しており、既にマーラーの才を認めていたことがわかる。

3番交響曲をへて、ハンブルクでの支配人との衝突からウィーンに拠点を移すと、指揮者ワルターらとの交友も始まった。このウィーン宮廷(国立)歌劇場(1897年〜1906年)との十年間は、マーラーの指揮者としての最も輝かしい栄光の日々であった。ウィーン歌劇場にとってもまさに黄金時代であった。
しかしマーラーのし烈な指導は反面、演奏者との確執を生むことも多かった。

1898年以降ウィーン・フィルの指揮も行い、ブルックナーシュトラウス、フランクなどの同時代音楽をとりあげた。シーズン外の夏が作曲の期間にあてられ、1900年より7年間、毎夏 避暑地 マイエルニヒで5番から7番の交響曲や歌曲集を完成させた。

私生活的において、1902年42歳でアルマ・マリア・シントラーと結婚、二人の娘(ひとりは生後すぐに死去)をもうけ、最も充実しており幸福な時代であった。
反面、卑近な素材や珍奇な音素材の導入、前衛音楽に踏み出した極度に肥大し密度の濃い複雑な曲想がなかなか受け入れられず、苦悩をもたらし、多忙から、健康を著しく害することになった。

自作の演奏を各地で重ねるにつれ作曲面の名声が高まってくると、楽譜も出版されるようになった。1906年46歳の時、8番交響曲への着手にさいし、作曲に専念する気持ちが強くなり、一部演奏者との確執などもあって1907年には惜しまれつつもウィーンの二大オーケストラの指揮台を去った。

この頃、英雄的な気分に満ちた作曲活動のさなか、ひとり残った愛娘を失った。彼も心臓の不調を訴えるようになり、心身ともに蝕まれていくようになった。自らも芸術家であり派手な交友関係を持っていたアルマ夫人の奔放さはグスタフに疑心暗鬼的な病んだ感情を与え、これらすべての相乗作用がグスタフ最高の作品群である「大地の歌」「9番交響曲」に昇華結実した。

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から正指揮者の誘いがあったとき、グスタフは既に健康面で危機的状況にあったものの、経済的基盤を築くためにこれを承諾した。1908年48歳の時ウィーンで演奏会を行い、数々の名士からの慰留を退け、シェーンベルクらの見送りを受けて12月12日アメリカ行きに乗船した。

その後イタリアのトブラッハとアメリカをシーズンごとに往復し、作曲と指揮を続けた。さらに1910年より11年までニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団を指揮し、アメリカの曲を初めとする当時の現代音楽の紹介も行った。

1908年8番「千人の交響曲」が完成。同時期「大地の歌」を作曲するが、死の予感にさいなまれる中、9番(交響曲)という番号を避けたのだともいわれる。1909年49歳の時トブラッハで9番を上梓。同時に10番に着手するも完成せずに世を去る事になった。

1910年50歳の時、ヨーロッパ各地で自作の指揮をする機会に恵まれ、特に有名な8番交響曲ミュンヘン初演の大成功は、作曲家グスタフを強く人々に刻み込む事になった。10月アメリカに戻り指揮を続けるも、心臓発作を繰り返し、1911年2月21日の指揮を最後に医師の薦めでヨーロッパへ帰った。

パリをへて再びウィーンに戻る事を望み、5月18日の嵐の晩、”モーツァルト!”という言葉を最後に事切れた。グスタフは、遺志により、娘 マリア・アンナの横に何の装飾も施されずに葬られた。

新浪慢主義の立場から一歩現代音楽に踏み出したその作風は、共に活動した新ウィーン楽派の面々にインスピレーションを与え、シェーンベルクやベルク、ウェーベルンを通じての20世紀音楽への影響は計り知れない。

豊かな指揮経験に基づく確かな響きの感覚は専門作曲家には無い的確な表現を可能にしている。ワグナーとブラームスの相反する二派のなかにあって、それらの手法を構造の一部として吸収し、さらに大きな音楽的枠組みを得ようとした過渡期作曲家の代表格だった。

グスタフ・マーラーは、作曲がしたかったようだが、皮肉にも少しも習ったことが無い指揮で有名になる。しかし、指揮を経験したことによって作曲が生きたものになり、最後には作曲の作品が残っている。

企業においても、座学による知識だけでは、見方が理想論になってしまい、現場で受け入れ難いものになってしまう。やはり現場体験が学問のうえでの知識とバランスがとれたときに、すばらしく独創的な知恵が生まれてくる。


マーラーのことば
  「人が永遠に生きるためには、まず死ななければならない」


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