男泣きに泣いた

二宮忠八

きょうは日本の飛行機開発の先駆者 二宮忠八(にのみや ちゅうはち)の誕生日だ。
1866(慶応2)年生誕〜1936(昭和11)年逝去(69歳)。

愛媛県八幡浜市矢野町に海産物を扱う富裕な商家の父 幸蔵・母 きたの四男として生まれた。幼い頃から好奇心旺盛だった忠八は、手製の凧で遊ぶことを覚え数々の工夫を凝らして画期的な凧を次々と発案した。6歳の頃家業が倒産し、借金の返済に奔走した父は、忠八が13歳のとき亡くなった。

彼は小学校をやめ、学費を稼ぐため町の雑貨店や印刷所の文選工などさまざまな職につき、夜は勉強に励んだ。1880(明治13)年には薬屋を開業の伯父の家で働き、薬学の基礎を学んだ。
この頃から自作の凧を売り出した。彼の創意工夫が散りばめられた『忠八凧』は飛ぶように売れた。
1887(明治20)年21歳の時、香川県の丸亀第12連隊の看護卒(衛生兵)として陸軍に入隊した。2年後には上等兵に昇進。そして同年 香川県西部の山岳地帯で実施された機動演習の帰途、もみの木峠と呼ばれる場所で休息をとっていた忠八は、仲間の兵士が捨てた携帯食を目当てに集まってくるカラスの群れを眺めているうち、ただ風に乗って空を舞うだけの凧ではなく、自在に大空を飛行できる乗り物を作ろうと思い立った。

その日以来、忠八は夢の実現に向けて昼夜を問わず研究に没頭した。鳥類の体型を詳細に調べて、鳥や昆虫、トビウオの飛行原理を分析するのみならず、伝説の天女や天狗、児雷也(じらいや:大ガマに乗って妖術をあやつり神出鬼没の活躍をする架空の義賊)など「空を飛ぶ」ことに関連するものは全て対象になっていた。

1890(明治23)年24歳の時、薬物や機械を取り扱う三等調剤手に任命され、営外にも住めるようになり、さらに研究を進め、翌年、船のスクリューにヒントを得た4枚羽根のプロペラ、滑走用の3つの車輪、聴診器のゴム官を細かく切り動力とした1号機『烏(カラス)型模型飛行器』を完成させた。(「飛行器」は忠八の命名)

1891(明治24)年4月29日の夕刻、丸亀練兵場の広場で、忠八の自作飛行機『カラス型飛行機』の飛行実験が行われた。この「飛行器」は、人間こそ搭乗してはいないが、この実験が成功した暁には、むろん有人飛行に向けた大型飛行器の製作に着手するつもりだった。

多くの人々が見守る中、ゴム動力の飛行器はゆるゆると機体を震わせながら地上を滑走し、大地を離れ大空へと舞い上がった。結局、『カラス型飛行器』は10mほど飛行し草むらへ着地した。現代の飛行原理へつながる動力飛行器が、日本で始めて空を飛んだ瞬間であった。

忠八は実験の成功に喜びながら何度も飛行器を飛ばし、日没までに30m近い飛行距離を記録した。人間が大空に舞い上がるには、鳥のように翼を造ってはばたくしか方法がないと考えていた当時の人々にとって、それは画期的な発明だった。
同年6月20日25歳の時、松山出身の深見寿世と結婚した。

忠八は、『カラス型飛行器』の実験成功に自信をつけ、さらに研究を重ねて、有人飛行器の設計作業を着々と進めていった。そして、鳥の体型にヒントを得た『カラス型』を発展させたのでは、人間の体重を支えきれないと知った忠八は、四枚羽根の昆虫の飛行形態を研究して、荷重にも耐えうる新たな機体を開発することに成功した。これが玉虫から学んだ原理に基づき設計した複葉の『玉虫型飛行器』である。時は、1893(明治26)年10月5日。

2年後の1894(明治27)年には日清戦争が起こり、野戦病院の一等調剤手として従軍しながら、戦略的にも飛行機の必要性を痛感した忠八は、この設計を今すぐにでも実用化して機体の製作に取りかかりたいという衝動に駆られたが、一兵士の身分では資材を購入するための多額の資金を賄い切れるはずもなかった。

忠八は意を決して上官である軍医に頼み、当時の日本陸軍参謀長 長岡外史大佐に『玉虫型飛行器』の設計図と飛行機実用化の上申書を提出した。
この画期的な発明は、軍上層部の関心を惹くこともなく、上申書は却下された。忠八は別の将軍を通じて再度上申を試みたが、結果は同じだった。

失望した忠八は、1898(明治31)年32歳のとき、自力で資金を蓄えるべく軍を離れ、大阪道修町の大阪製薬株式会社(現 大日本製薬)に販売員として入社した。商才にたけアイデアマンであった忠八は、のちに大阪精薬合資会社を設立、社長に就任し、大阪実業界の第一人者たちと肩を並べるまでになった。こうして、資金もでき、夢の実現に向けて一歩一歩前進し、石油発動機を動力にする飛行器の枠組みまで出来あがった。

だが、運命の女神は忠八には冷たかった。1903(明治36)年2月17日、米国ノースカロライナ州キティホークの広場で、ウィルバーとオービルのライト兄弟が、自作の飛行機で大空を飛翔したのである。
このニュ―スを新聞で知った忠八は、男泣きに泣いた
彼は自分の作った機体をハンマーで打ち壊し、『玉虫型』の設計を含む、全ての計画をあきらめ、飛行器の話題を避けるようになった。

忠八の功績は、1919(大正8)年53歳の時、白川義則将軍によって「天才的発案」として再評価され、専門家達によって、世界に先駆けた研究であったことが証明された。長岡将軍も上申書を却下した非礼を詫びて、後に忠八の許を訪れた。

もし忠八の上申書が認可されていたなら、人類史に新たな道を切り開いた者として偉人伝の表紙に記された名は、ライト兄弟ではなく、二宮忠八だったのかもしれない。晩年の忠八は、彼の夢をのせた飛行器による事故で命を落とした人の霊を供養するため「飛行神社」を建立し神主となった。

二宮忠八は、飛行機を発明したにもかかわらず、それが理解できる人がいなかった。そのため、有人の飛行機の発明はライト兄弟となり、また戦争にも負けることになった。そして日本はいまだに飛行機を自作できない国に甘んじている。

企業においても、あまりにも画期的な発明や、すばらしい提案は、それを理解できる上司に恵まれない場合は、発案者とともに陽の目を見ないことになってしまう。運が悪いとしか言いようが無いが、それが歴史というものかもしれない。 


二宮忠八の本
  玉虫とんだ―世界初の模型飛行機をとばした日本人 二宮忠八物語
  竹トンボ凧と飛行機―飛行機と発明者・二宮忠八
  日本の航空機―二宮忠八「玉虫型飛行機」からの出発 [世界の航空機100年] ()
  二宮忠八・伝―世界の飛行機発明の先駆者
二宮忠八・伝―世界の飛行機発明の先駆者


 
  忠八自作の鳥形模型飛行機(手前)、玉虫型模型飛行機(奥)