いざという時 人物がわかる

犬丸徹三

きょうはホテル業界を革新した元帝国ホテル支配人 犬丸徹三(いぬまる てつぞう)の誕生日だ。
1887(明治20)年生誕〜1981(昭和56)年逝去(93歳)。

石川県能美郡根上村(現 小松市)で生まれた。生家は機織り工場を経営していた。尋常科を卒業し、往復16kmもある小松町の高等科に歩いて通った。その後、小松中学へ、前後9年間も往復16kmを、無遅刻・無欠席で歩き続けた。

その後、東京高商(一橋大学の前身)へ入学した。ところが、本科を卒業した者が進学する専門部を文部省が廃止しようとしたことに端を発し、学生がストライキに出た。多感であった青年犬丸も指導者の一人として活躍。ついに文部省は大学昇格を約束してケリがついた。だが、首謀者は退学になり、同級の緒方竹虎(後の吉田内閣 副総理)もまた学校を去った。
この闘争の経験で、犬丸は悩み続け、学業を放棄し、禅と読書に打ち込んだ。このために外交官への夢もどこかへ消し飛んでしまった。東京高商卒業後、精神的に不安定のまま、1910(明治43)年23歳のとき長春満州)のヤマト・ホテルにボーイとして就職した。しかし、客にもみ手をして頭を下げる自分が、みじめに思えてしかたがなかった。

当初はやけになることもあったが、いつのまにか、彼の中に、ホテル事業への興味が湧いてきた。同ホテルに3年間勤務した後、上海のホテルでコック修行をした。ところが、上海在住の東京高商の同窓生たちからは「コックなど東京高商の名を汚すもの」と言われながらも修行に打ち込んだ。

ここでは「中国革命の父孫文がかわいがってくれ、「よし頑張ろう」と思ったようだ。偉い人は、どこまでいっても偉い。目立たない下働きの人のことまで、よく見ている。また、外国人に対しても分け隔てなく温かく激励する。

1914(大正3)年27歳のとき、当時の英貨でわずか4ポンド半しか持たず、ロンドンに渡り、ホテルの雑用係の仕事にありついた。その後は窓拭き係の仕事で、汚いし、危険でもあった。「決意して、ホテル修業に来たものの、求める仕事を得られぬままに、ともすれば、心が空虚になるのを抑えることはできなかった」と後に犬丸は述懐している。

このホテルに、もう一人、初老をすぎた窓拭きがいた。彼は、毎日、黙々とガラスを拭いていた。ある日、「毎日、こんな仕事で満足しているのか」と半ば、からかうように聞いた。男は、「窓は拭けばきらきらとしてきれいになる。きれいになれば、私は、それだけで限りない満足を覚える。自分は、この仕事を一生の仕事として選んだことを、少しも後悔していない」
犬丸は打ちのめされた。「ああ、何という立派な態度であろうか。己の仕事に、これほどまでに誇りを持っている。何という美しい人生であろうか」
犬丸は、以後、どんな職場に移ってもこの心で貫こうと決めた。

その後、待望のコック見習いとなった。一年間ではあったが、わき目もふらずに英国料理の研究をした。その後、包丁一本を持って、フランスやアメリカでもコック修行を続け、1919(大正8)年32歳の時に帰国した。

同年、彼は帝国ホテル副支配人となり、長年にわたって得た知識を存分に生かした。1923(大正12)年36歳のとき総支配人になった。
彼は、ホテル料理の大衆化を進めるため、いわゆる食べ放題の「バイキング料理」を導入し、連日長蛇の列ができた。また、ホテルでの結婚式と披露宴を併せたサービスの創始者でもあり、日本におけるホテルの近代事業化に多大な功績を残した。

帝国ホテルの新館を開業した当日、1923〈大正12)年9月1日、関東大震災が起こった。犬丸は被災者に無料で部屋を開放し、借金までして食事の炊き出しをした。外国人を皆、受け入れて、決死の覚悟で働き、日本の信用を大いに高めた。
青年時代の苦労こそが、人物を深く、強靱なものにするのである。
いざという時 人物がわかる

この頃から、ホテル建設の話は、殆んどすべてと言っていい位、犬丸に相談がもちかけられるようになった。
ちょうどその頃、1940(昭和15)年に、オリンピックが東京で開催されると言うので、それをあてこんで、次々とホテルが建設された。そのいくつかに、彼の足跡が刻み込まれた。しかし、戦争のため、オリンピックは中止となった。

1945(昭和20)年58歳で帝国ホテルの社長になった。1948(昭和23)年 日本ホテル協会会長に就任し、名実ともに、ホテル業界の大御所的存在であった。
1959(昭和34)年72歳で日本観光協会設立委員、1960(昭和35)年 東京都観光協会理事、1961(昭和36)年 観光事業審議会第二部会長、1963(昭和38)年 観光政策審議会委員、同年株式会社日本交通公社取締役を歴任した。

そして、再びやってきた1964(昭和39)年の東京オリンピックには、文字通り、ホテル業界の王として、その仕事に取りくんだ。「意志の人」犬丸徹三は、わが国のホテル業界の地位の向上やホテルマンの育成に多大な貢献をした。

企業においても、初めから、思い通りの職場にいけるとは限らない。しかし、どこであれ、「そこで光る」ことだ。どんな小さな仕事でも、ピカピカに輝く位に、仕上げることだ。すると、その人に信用ができる。その人が一流になる。
一流と言われる会社にいる人が一流なのではない。「一流の人」が働いている会社こそ、一流なのだ。

★帝国ホテル★
1890(明治23)年開業。当時の外務大臣 井上馨が、首都東京に外国からの賓客をもてなす本格的ホテルが無いのは国の恥だとして、財界の重鎮であった渋沢栄一大倉喜八郎に本格的なホテルの建設を勧めたことが開業のきっかけになった。
フランク・ロイド・ライト設計による荘重な建築物で、日本を代表する迎賓館的なホテルになった。店舗展開には非常に慎重だが、近年海外にも進出している。
[建築]
竣工時の建物は渡辺譲の設計で、木骨鮭瓦造三階建て、客室60、工費23万円の破格な豪華ホテルだったが、1922(昭和11)年 焼失。
その後、明治末以来の外国客激増に伴って新館の建設が計画され、設計をアメリカの著名建築家F・L・ライトに委嘱した。この建設には国賓宿泊の関係から宮内省と大蔵省が協力した。全館 (鉄筋コンクリート造、地上5階・地下1階、客室300) 竣工は1923(昭和12)年8月、工期・工費とも当初の3倍に達する難事業であった。
建築は来日したライトが心血を注ぎ、とくに内部は幾何学模様が彫刻された大谷石と鮭瓦の構成で類のない濃密な空間となっていた。第ニ次大戦中一部が類焼、戦後米軍の接収により破損し、また落成披露当日の関東大震災以来の損傷が限界に達して、1967(昭和42)年 取り壊された。1970(昭和45)年、地上17階・地下3階、収容客数2400人の近代的ホテルに改築された。ライト設計の旧館の一部が愛知県明治村に保存されている。 

犬丸徹三のことば
  「宵越しの金は使わないと自慢している奴がいるが、
   裏返しにすれば、独立心がなくて、依頼心だけが強いということだ。
   自分の金がなくなって、しかも金が必要になった時、
   他人になんとかしてもらうことになってしまうからだ」


犬丸徹三に関する本
  帝国ホテルのおもてなしの心
  帝国ホテル 感動のサービス―クレームをつけるお客さまを大切にする
  帝国ホテルが教えてくれたこと―笑顔が幸せを運んでくれる
  「帝国ホテル」から見た現代史
  客室係がみた帝国ホテルの昭和史
  帝国ホテル物語
帝国ホテル物語「帝国ホテル」から見た現代史帝国ホテル 感動のサービス―クレームをつけるお客さまを大切にする帝国ホテルのおもてなしの心