あの人がいなかったら

広瀬宰平

きょうは幕末・明治時代前期の実業家 広瀬宰平(ひろせ さいへい、幼名:満忠)の誕生日だ。
1828(文政11)年生誕〜1914(大正3)年逝去(86歳)。

近江国野洲郡八夫村(現 滋賀県野洲市中主町)の医者 北脇理三郎・母三根の次男として生まれた。1836(天保7)年8歳の時、伊予国愛媛県新居浜市別子銅山の支配人であった叔父 北脇治右衛門に連れられて別子へ行き、10歳から住友家に奉公した。仕事の合間に独学で漢学を修め、中国の古典によって事業経営の真髄を学んだ。

北脇満忠は27歳で相と結婚し、翌年1855(安政2)年28歳の時、10代目家長 友視の勧めで、浅草出店元支配人であった広瀬義右衛門に夫婦養子となった。広瀬義右衛門は引退後、新居浜の金子村では、かなりな資産家となっていた。
住友家は、長崎から輸出する銅を生産していたが、当時 銅の輸出は幕府に管理されていたので、住友の銅事業そのものが国策の事業であった。広瀬は銅の流通を通じて、幕府の衰弱・欧米列強の侵略等、日本の置かれた危うい状況を知った。
1866(慶応2)年には松山に来航した異国船を見に行き、いよいよわが国も大変だぞと肌身で感じた。

広瀬は単なるデスクワークだけで昇進した経営者ではなかった。幼少の頃から別子の山に住み、坑内へもたびたび入りながら、莫大な鉱脈の眠る宝の山であることを現場の人間以上に知悉(ちしつ:知りつくす事)していた。いわば「別子の申し子」ともいうべき経営者であった。

幕末の頃、別子銅山は多年の幕府買い上げ制の低採算と、長州戦争の軍資金献上や銅山への安値米のカットなどが重なって、経営は危機寸前だった。さらに明治維新を迎えると、別子銅山と大阪銅蔵の接収という新たな危機にも直面した。

広瀬は1865(慶応元)年37歳のとき別子鋼山支配本役となった。幕末・維新の動乱期に、大阪本店の重役達がなすすべもない中で、八面六臂の活躍により、住友家の事業を存亡の危機から救う大役を果たした。維新後には鉱山経営の近代化に努め、フランス人技師を招き、銅山の採掘・製錬の機械化を進めたり、鉄道を敷設したりして、別子銅山の近代化を図り、住友財閥発展の基礎を固め、筆頭番頭として活躍した。

銅山以外の分野でも次々に多角化を進め製茶・製糸・樟脳・製紙・石炭などに手を広げ、白水丸はじめ何隻もの汽船を購入・建造し運輸を始め、新居浜の築港、並合業(抵当による貸金業)、大阪堂島に倉庫をつくるなど基盤を固めた。1877(明治10)年49歳のとき住友家初代総理代人(のちの総理事)に就任し、名実共にこの時期の住友家事業全般を総覧し屋台骨を支えた。

大阪株式取引所(副頭取)・硫酸製造会社・大阪製銅会社(社長)・大阪商船会社(社長)など、の設立や経営に貢献して、関西財界の中心的存在として幅広く活躍した。

晩年は、長期政権に伴う社内の混乱と、製錬所の煙害が社会問題となる中で、1894(明治27)年66歳で総理を辞任した。以後は神戸の須磨で花鳥風月を愛でる自適の余生を送った。

積極的で豪快な仕事の反面、私的な面では若い時から家庭には恵まれず、28歳のとき「相」と結婚し広瀬家の夫婦養子となったが、難産で生まれた女児と一緒に相は亡くなった。後妻の「町」は、長男満正を出産したが、満正4歳の時病気で亡くなった。三番目の妻「幸」を1875(明治8)年に迎えたとき、広瀬は47歳で20歳年下の幸は活動的で、広瀬の最期まで側に付き添った。

広瀬宰平は、一生を住友家のためにささげた人だが、現場を嫌ともせず、奉公の時代から独学で勉強に励んでいる。また事業を通して国の内外の状況を知るなどの感覚も優れていた。それらの才覚で住友家を救うのだが、もし彼がいなくて住友家が崩壊していたら、維新後の日本はどうなっていただろうか。

企業においても、あの人がいなかったらこの会社はどうなっていただろうか、と言われ会社に多大な貢献をした人は、どの会社にもいるものだが、会社人間である以上は、そのように言われたいものだ。しかし、あの人さえいなかったら・・・と言われてはいけない。


広瀬宰平の本
  幕末「住友」参謀 広瀬宰平 (人物文庫)
  幕末「住友」参謀―広瀬宰平の経営戦略 (講談社文庫)
  宰平遺績―伝記・広瀬宰平 (伝記叢書 (329))
  住友の元勲
  「明治期」の別子そして住友―近代企業家の理念と行動