上達する必要はない

斎藤茂吉

きょうは医師で歌人 斎藤茂吉(さいとう もきち)の誕生日だ。
1882(明治15)年生誕〜1953(昭和28)年逝去(70歳)。

山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現 山形県上山:かみのやま:市金瓶)で農業を営んでいた守谷熊次郎・さきの三男として生まれた。西に最上川の支流須川、東に蔵王の山並みを配する牧歌的環境の中に身を置いた茂吉は、少年の頃から四季の機微に触れるところとなった。後の自然を細やかに見つめた写実的作風は、この頃までに既に育まれていたものと見られる。

小学校の頃から優秀だった茂吉は、生家が生活苦のためもあり、東京浅草で浅草医院を経営していた親戚の斎藤紀一にその資質を認められ、養子になり医学を修めることになった。14歳で上京し、府立開成中学編入学、第一高等学校卒業後、東大医科大学に進学した。
1905(明治38)年23歳の時、神田の貸本屋から借りた正岡子規の遺稿第一篇『竹の里歌』に強く感銘を受け、作歌に意欲的に取り組むようになった。また子規派の雑誌『馬酔木(あしび)』を求めて読むようになり、1906(明治39)年に子規門 伊藤左千夫に自作の歌を添えて書を送りついでに訪問したことをきっかけに門下に入り、その後『馬酔木』に作歌を発表するようになった。
1908(明治41)年の歌誌「阿羅々木(アララギ)」の創刊時には主宰者の左千夫を助け、その後編集を担当、作歌や評論活動を活発に行った。

1913(大正2)年31歳の時、処女歌集『赤光』を刊行した。この歌集は、「死にたまふ母」の連作を所収したもので、激しい叙情精神と鋭い感覚とを素朴な万葉調に託し、一躍作者の名を有名にし、とくに「死にたまう母」一連の作品は茂吉の名を不朽にした。
1914(大正3)年4月32歳のとき、斎藤紀一の次女てる子と結婚した。
島木赤彦の没後、1926(大正15)年44歳で「アララギ」の責任者となった。

医師としては、1910(明治43)28歳の時、東京帝国大学医学科を卒業後、1917(大正6)年、長崎医学専門学校教授になり、1921(大正10)年にはヨーロッパに留学した。1924(大正13)年42歳で医学博士となった。1925(大正14)年帰国したが、その直前に勤務先の青山脳病院が全焼する非運があり、再建のために困難な生活を送った。1926(大正15)年 青山脳病院の院長になった。

茂吉は万葉集を歌の基礎として「短歌写生の説」を実践、さらに「実相観入」を提唱しこれを追求しつづけた。戦後、1946(昭和219年 大石田山形県北村山郡大石田町)に移住、自然の移り変わりを飽くことなく詠みつづけた「最上川詠」は、「実相観入」による「写生」の域に達したもので、生涯の最高峰「白き山」に結実した。
逆白波、赤光、白き山、赤蜻蛉、つばくらめ、白雲、乳汁の色など色彩表現豊かな短歌を多く残した。

「あらたま」「小園」「連山」「白き山」など16の歌集を刊行し、生涯に残した歌は17000余にのぼる。歌集の他、歌論、評論、随筆、研究など、各分野に一流の力量を示した巨大な存在であった。
「柿本人麿」の研究にも功績を残した。「山形の鴎外」と歌われた。

斎藤茂吉にとって、医師が主なのか短歌が主なのかは問題でなく、その二つがバランスをとって彼の生き方を形成していたのだろう。歌の世界に入っている時は、至福を感じていたのではないかとも思えるが、彼の句にはどうも暗さとか寂しさを感じてしまう。

収入を得るための仕事は楽しくありたいものだが、そうでない場面も多い。それを乗り越えたり、癒してくれるものが趣味の世界である。
茂吉のように上達する必要はないが、ある程度は上手である方が楽しいし長続きするはずだ。そのためにもできるなら若いうちから始めることが望ましい。


斎藤茂吉の作品
  「のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり」
    玄鳥(げんちょう:ツバメ)、足乳根(たらちね:父母)
  「朝ゆふは やうやく寒し 上山の 旅のやどりに 山の夢みつ」
  「陸奥を ふたわけざまに そびえたまう 蔵王の山の 雲の中に立つ」
  「高原の 沼におりたつ 鸛(こうのとり) ひとつ山のかげりより 白雲わきて」
  「最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片」


斎藤茂吉の本
  万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)(下巻)
  斎藤茂吉歌集 (岩波文庫)
  斎藤茂吉随筆集 (岩波文庫)
  赤光 (岩波文庫)
  斎藤茂吉
  「感謝」する人―茂吉、輝子、茂太に仕えたヨメの打ち明け話

「感謝」する人―茂吉、輝子、茂太に仕えたヨメの打ち明け話斎藤茂吉斎藤茂吉歌集 (岩波文庫)万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)