学生は圧倒された   

大塚久雄

きょうは戦後日本を代表する社会科学者 大塚久雄(おおつか ひさお)の誕生日だ。
1907(明治40)年生誕〜1996(平成8)年逝去(89歳)。

京都市に生まれる。旧制第三高等学校時代に母を亡くしている。旧制三高卒業後、1927(昭和2)年 東京帝国大学経済学部に入学。在学中 無教会キリスト教内村鑑三に師事し、聖書講義を3年間受け、無教会派のキリスト信者となった。内村鑑三からは、マルクス主義についての示唆もうけた。

1930(昭和5)年、東京帝国大学経済学部を卒業後、東京大学助手を3年間務めた。1933(昭和8)年26歳で法政大学経済学部の講師、1938(昭和13)年31歳で、同教授となった。1939(昭和14)年から東京大学経済学部の助教授、1945(昭和20)年から1968(昭和43)年まで同教授を務め、数多くの歴史研究者を育てた。
1941(昭和16)年34歳の時、父を亡くした。また、この年、東京帝大へ行く途中、バスで左膝を負傷し、長期療養の身となった。そして、1943(昭和18)年36歳の時、左脚を上腿部から切断した。40歳代の初めには左の肺をほとんど切除するという大手術を受けている。

大塚が体系化した「大塚史学」と呼ばれる理論的な基礎はマルクス経済学とウェーバー社会学の研究にあり、実証的には1930年代のヨーロッパにおける資本主義確立期の研究を通して「近代」の諸問題を考察した。背後には日本の民主主義が未成熟であることへの反省があると考えられている。

戦争末期、大変不自由なときに病床にあって、大塚は「何とか自分の考え方を書き残しておきたいと、毎日原稿用紙一枚ずつ力を振り絞って書いた」ようだ。
1953(昭和28)年頃の大塚のゼミは、千駄木町の大塚宅のベッドサイドで行われ、病床の大塚が展開する学問の世界に学生は圧倒されたようだ。
大塚は想像を絶する肉体のハンディキャップを負いながら、しかし超人的な精神力、禁欲的な生活態度で、大きな業績を残した。

日本を代表する経済史家、経済学者であり、社会科学者である。同時代の政治学者の丸山真男に対比されることもある。
大塚は、マルクス経済学とウェーバー社会学の研究をしたことから、「マルクス・ウエーバー」とも揶揄(やゆ)されたこともあったようだ。

大塚久雄は、「大塚史学」という経済学を越えた社会科学的経済学で近代社会の研究をし続けた学者だが、肉体的ハンディキャップに加え、両親も早くから亡くした上、学会からも横目で見られていたようだ。持論を展開するにあたって、恩師を否定する部分もあり、今までの経済学者との対立もあったのだろう。

企業においても、意見が対立することは当然あってしかるべきだが、対立する意見を考える時に、相手の人間そのものを理解しようと考えることも大切である。そうすることで、案外簡単に妥協点が見出せるかもしれない。


大塚久雄のことば
  「歴史を研究する前に歴史家を研究しなさい」


大塚久雄の本
  大塚久雄著作集 第1巻 株式会社発生史論〜(第13巻)
  プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
  社会科学における人間 (岩波新書)
  社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)
  国民経済 その歴史的考察 (講談社学術文庫)
  生活の貧しさと心の貧しさ
  大塚久雄と丸山眞男?動員、主体、戦争責任
大塚久雄と丸山眞男?動員、主体、戦争責任国民経済 その歴史的考察 (講談社学術文庫)社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)