世の中にたくさんある   

マルコーニ

きょうはイタリアの電気技師で無線電信技術を開発した グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)の誕生日だ。1874年生誕〜1937年逝去(63歳)。

北イタリアの大地主の父と富裕なアイルランド人の母の次男に生まれた。幼い頃は学校へは行かず当時有名だった学者や教師を家庭教師として物理学を学んだ。

1894年20歳のマルコーニは、父親の別荘に避暑に行った。1冊の科学雑誌にヘルツの実験に関する記事があった。この記事から、ひとつの着想が浮かび,とめどなくふくらんでいった。「ヘルツの電波を利用したら、無線通信が可能なのではないだろうか?」
発想は単純だった。「この着想の最大の欠点は、あまりにも基本的で単純だったため、その実用化を考えた研究者がいないとは信じ難かった点だ」そう思いながらもマルコーニは研究せずにはいられなかった。
悪戦苦闘の末、偶然正しい装置の組み合わせを発見した。この実験は自宅の屋根裏部屋で行われ、自宅の窓からモールス信号で、1700mの通信に成功した。これが「無線通信」の最初となった。1895年21歳の時だった。
同じ年、ロシアのアルクサンドル・ポポフも無線電信の実験に成功している。

イタリアでは、この新しい無線通信という通信手段を実用化するという企画に賛同してくれる人がなく、マルコーニは1896年ロンドンに渡り、イギリスでの無線電信の特許を取るとともに、1897年23歳でロンドンの資本家と協力して、世界ではじめての無線電信会社「マルコーニ無線会社」を作った。

マルコーニは無線通信のアイデアをイギリス参謀本部海軍省、郵政省等に売り込んだ。その後、1898年イギリス海峡を隔てての無線通信に成功、イタリア、アメリカなどに無線電信会社を設立。さらに年々改良を加えて通信距離を延ばし、1901年には、大西洋を隔てて3200km離れたアメリカとの無線通信にも成功した。

大西洋の無線通信は海底電信業者からの強い反発を受けたが、船舶間の通信や、陸地と船舶との通信に役立つため、マルコーニ無線会社がこの事業を独占した。1900年代はじめには、多くの商船、定期船、軍艦が無線を装備するようになった。

1909年、アメリカのリパブリック号とイタリアのフロリダ号が濃霧のためアメリ東海岸沖で衝突。リパブリック号からの信号を受け救出船が30分以内に現場に到着、1700名もの乗客の救助が成功したといわれている。また1911年に、タイタニック号の事件が起こり、SOSの無線電信によって乗客の半分が救われた。

これらの出来事は世界の注目を大いに集め、若きイタリア青年マルコーニの事業を一大躍進させることとなった。20以上の多国籍企業を設立し、実業家としても成功を収めた。
彼は1902年28歳のとき「磁針検波器」を、1907年「円板放電器」を発明した。第1次世界大戦中には、短波の長所に注目し、その後は短波通信技術の開発に尽力した。
無線電信はやがて無線電話へ、さらにラジオ、テレビ放送へと発展していった。

1909年35歳のときK・ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞したほか、1919年にはパリ講和会議のイタリア全権大使、1929年55歳のとき侯爵に叙せられるとともに上院議員に任命され、また1930年イタリア王立アカデミー総裁に選ばれた。1933(昭和8)年には日本を訪れている。

マルコーニは、一冊の雑誌の記事から「無線通信」のヒントを得ているが、その雑誌は数多くの人が同じようにながめているはずであり、新技術へのアンテナが敏感であったから、思いついたことだろう。家が裕福であったことも成功した要因であるが、やはり感性の要素が大きいはずであり、発見から後の事業化も積極的にやっている。これらが、同時に成功しているロシアの学者との違いだ。

企業においても、新技術や新商品のヒントは世の中にたくさんあるはずだが、それに気がつきうまく軌道に乗せることができなければ、事業に結びつかない。いくらアンテナを敏感にしても、雑音ばかり拾っていたのではいけないし、フィルターをかけすぎてもいけない。このあたりが分かれ道になりそうだ。


マルコーニの本
  マルコーニ (世界を変えた科学者)
  グリエルモ・マルコーニ
  無線百話―マルコーニから携帯電話まで
  マルコーニ ダイムラー ライト兄弟―飛躍する電信・輸送技術 (漫画人物科学の歴史 世界編)
グリエルモ・マルコーニ