さらに引き立てる役目を   

上村松園

きょうは女流日本画上村松園(うえむら しょうえん、本名:津禰 つね)の誕生日だ。1875(明治8)年生誕〜1949(昭和24)年逝去(74歳)。

京都市四条御幸町の葉茶屋「ちきり屋」上村家の次女として生まれた。誕生前に父を失い、母の手で育てられた。小さい時、母にねだって、江戸絵や教えに使う白描を買ってもらい、江戸絵を手本にしたり、白描に色を塗って遊んだ。小学生の時、京都の小学校が連合して絵の展覧会を開き、彼女は墨筆の「たばこぼん」を出品して入賞した。

小学校を卒業して、京都画壇の大家 鈴木松年(しょうねん)の勧めで京都府の画学校に入学し、正式な絵画教育を受け、そのとき松園という号をもらった。鈴木松年や竹内栖鳳(せいほう)、幸野楳嶺(ばいれい)について絵を学んだ。

1890(明治23)年15歳の時、松年の勧めで第三回内国勧業博覧会に「四季美人絵図」を出品して、一等褒状を受賞した。また、この「四季美人図」は、来日中の英国皇太子の目にとまり買い上げられたことから、彼女の名は一躍有名になった。
25歳の時、日本美術院の展覧会に出品した「花ざかり」は横山大観(たいかん)とならんで銀賞を受賞。28歳で画家として独立した。1934(昭和9)年59歳の時に母が亡くなって以降は、シンプルな線と無駄のない造形、明快な色彩を特色とし、内面的な深みを感じさせる女性像を多く描いている。

軍国主義が社会の隅々に支配を広げていった時代に、女性のたおやかさを見事に表現し、着物や装身具や小物によって日本伝統のこまやかな美意識を余すところなく伝えた松園は、実に強い女性であった。

彼女は、明治・大正・昭和を通して、美人画において独自の境地を拓き、その豊かな才能を開花させた。「母子」「月雪花」「夕暮」「晩秋」など多くの名作を描き、格調高い近代美人画の完成者とされている。1941(昭和16)年66歳のとき芸術院会員となり、1948(昭和23)年に、女性として最初の文化勲章を受章した。

上村松園は、女性の美しさをその表情やしぐさで表現した女流画家だが、バックとなる風景が単純だが物語があり、女性をさらに引き立てる役目を果たしている。

企業においても、前面に出る人を支える側近、番頭、右腕といったバックがしっかりしていると企業はより強くなり、大きな成果をあげることができる。

★松園の母と師★
娘が芸術の道を志したとき、周囲の反対を、「つうさん(松園)が、好きな道やもん」と受け流した。後年、松園は「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのです」と自伝に書いている。
また、彼女の師の鈴木松年も、「物事にこだわらない豪快な中に、しみじみとした人情味があり、弟子を世に送りだそう、だそうとされたところなど、大器のところがありました」と記されているように、「師に入って、師を出でよ」が口癖の立派な師だった。
彼女の芸術は、この二人によって花開くことができたのだ。



上村松園の作品
    
   夕暮            晩秋          虫の音  


上村松園の本
  青眉抄 (講談社文庫 う 4-1)
  上村松園 佳人賛歌 (日経ポストカードブック)
  日本の名随筆 (別巻84) 女心
  上村松園画集
  上村松園 (新潮日本美術文庫)
  上村松園 秘めた女の想い (巨匠の日本画)
  青帛の仙女―上村松園
青帛の仙女―上村松園上村松園 (新潮日本美術文庫)上村松園画集日本の名随筆 (別巻84) 女心