評論家のように現状を見る   

生田長江の石彫

きょうは文藝評論家、小説家、戯曲家、翻訳家 生田長江
(いくた ちょうこう、本名:弘治、号:星郊)の誕生日だ。
1882(明治15)年生誕〜1936(昭和11)年逝去(54歳)。

鳥取県日野郡日野町根雨に生まれた。1898(明治31)年16歳の時、キリスト教に入信した。東京大学哲学科美学科入学。東大在学中、1904(明治37)年22歳のときから馬場胡蝶、上田敏らが再興した同人誌「芸苑」のメンバーに加えられ、「小栗風葉論」で文壇に認められた。1906(明治39)年、卒業後次々と評論を発表した。

森田宗平と共同編集で「反響」を刊行した頃から堺利彦大杉栄と親交を結び、視野を文壇批評から社会問題へと広げていった。特に、文芸評論ではしばしば厳しい見解を示したことから、文壇から孤立する側面もあったが、その実力と発言は無視されることはなかった。
911(明治44)年9月発行の女性文芸誌「青踏」(「元始、女性は太陽であった」で始まる)を支援した。この年、ニーチェ著「ツァラトゥストラはかく語りき」を日本で初めて翻訳出版した。

大正時代の指導的な評論家であり、また秀れた翻訳家・小説家・劇作家としてユニークな文芸活動をくりひろげた。晩年は病もあって、やや不遇だった。
主な評論集に「最近の小説家」「最近の文芸及び思潮」「徹底人道主義」「ブルジョアは幸福であるか」「ニイチェ全集(全12巻)」などがある。

日野町根雨延暦寺境内には、生田長江の二段の碑がある。上の段には彫刻家・辻晉堂(つじ しんどう)が描いた似顔絵が彫られている。下の礎石には弟子であった佐藤春夫(さとう はるお)の文章が刻まれている。

生田長江は、明治の中頃から大正・昭和にかけての人だが、体が弱かったらしく、何かしら悲壮感のようなものが感じられる。そのような状態でありながらも、文学界に対し厳しい意見を繰り広げている理由は何なのだろうか。

企業において、特にモノづくりの現場では、評論家は不要であるが、評論家のように現状を見ることは必要である。ただし、ここで終わるのではなく、問題を提起し、改善案を出し、それを実行することが求められる。


生田長江のことば
 「第一に科学的なるもの真と、第二に道徳的なるもの善と、
 第三に芸術的なるもの美と、此三者はつねに宗教的なるもの聖に統合せられて、
 三位一体をなすべきことを」


生田長江の本
  昭和初期世界名作翻訳全集 (5)
  超近代派宣言 (近代文芸評論叢書 (2))
  文学新語小辞典 (近代用語の辞典集成)
  新文学辞典 (近代用語の辞典集成)
  文学者の日記〈5〉長与善郎・生田長江・生田春月 (日本近代文学館資料叢書)