悲劇を迎えることに   

犬養毅

きょうは元首相、「憲政の神様」 犬養毅(いぬかい つよし、号:木堂ぼくどう)の誕生日だ。
1855(安政2)年生誕〜1932(昭和7)年逝去(77歳)。

備中庭瀬村字川入(現 岡山市川入)の郷士大庄屋)源左衛門の二男として生まれる。1876(明治8)年、上京し共慣義塾を経て、慶應義塾に転学。翌年、西南戦争で郵便報知新聞の記者として従軍し名声を博した。慶應義塾を卒業直前に中退した後、保護貿易論を訴えて「東海経済新報」を発刊した。

1881(明治14)年26歳で、統計院権少書記官となるが、政変で大隈重信に従って下野、再び郵便報知新聞の記者となった。1882(明治15)年27歳で、「立憲改進党」の結成に参加。1886(明治19)年には朝野新聞に移り、「大同団結運動」を推進、大隈の腹心として行動した。
1890(明治23)年35歳の時、第1回衆議院総選挙で故郷の岡山から立候補して当選し、以後18回42年間に渡り議員を務めた。1896(明治29)年41歳で、「進歩党」結成に参加、1898(明治31)年の第1次大隈重信内閣で文部相となった。憲政党分裂後は憲政本党の重鎮となり、政権に対抗した。その頃から中国革命に興味を持ち、孫文らと交流した。

大正デモクラシーでは、尾崎行雄とともに憲政擁護を訴えたが、1917(大正6)年には閥族系の寺内正毅内閣で臨時外交調査委員会に参加した。その後、普通選挙を訴え、1922(大正11)年67歳の時、「革新倶楽部」を結成した。

1923(大正12)年、第2次山本權兵衞内閣で逓信相。1924(大正13)年、護憲三派内閣結成で逓信相。1925(大正14)年、普通選挙成立で革新倶楽部と政友会の合同を実施し、政界から引退した。しかしまもなく後援者の要請で復帰。1929(昭和4)年74歳の時、「立憲政友会」総裁に就任し、軍部とも同調して統帥権干犯問題などを取り上げた。

1931(昭和6)年76歳の時、政友会を率いて内閣を組織、不況対策、金輸出禁止等の経済政策を行った。しかし満洲事変の収拾を図ろうとして失敗。議会政治の擁護にもつとめたが、軍部の反発を買った。1932(昭和7)年、5・15事件で海軍青年将校の凶弾に倒れ、戦前では政党政治最後の首相となった。

生前は眼光鋭く、気節に富み、気力旺盛、情に厚く、清貧に甘んじたといわれる。一貫して政党政治の確立に貢献し、「憲政の神様」といわれた。辛亥(しんがい)革命を支援したアジア主義者でもあった。また文章を能くし、書は枯淡(あっさりしている中に深いおもむきがある)、一家を成し(一流を極める)、刀剣にも親しんだ。

犬養毅は、軍部の力がしだいに強くなり、政治に介入していく様子を見て、軍部の暴走を食い止めようと努力した。これが、青年将校たちの逆恨みを買い、殺害されてしまった。武器をおそれず、青年将校に銃を向けられた時も「話せばわかる」と言った犬養毅の度胸には刑服さざるを得ない。
これにより、誰も軍部の暴走を止めることができなくなり、第2次世界大戦の悲劇を迎えることになった。

企業においても、いろんな交渉の場面があるが、常に冷静に話を進めることが重要だ。双方が感情論になってしまっては、解決の道は閉ざされてしまって、お互いに損をすることが多い。


犬養毅の本
  明治期の犬養毅
  犬養毅 その魅力と実像
  犬養毅―リベラリズムとナショナリズムの相剋
明治期の犬養毅