文化と教育の本質   

岡 潔

きょうは数学者 岡 潔(おか きよし)の誕生日だ。
1901(明治34)年生誕〜1978(昭和53)年逝去(77歳)。

大阪市東区島町に生まれた。3歳の時、父母の郷里 和歌山県伊都郡紀見村(現 橋本市)に帰り、祖父母と両親の薫陶のもとに、幼年期と少年期の大部分をこの地で送った。和歌山県粉河中学を経て、京都の旧制第三高等学校理科甲類入学。
1922(大正11)年21歳で第三高等学校卒業。京都帝国大学理学部へ入学した。1925(大正14)年、京都帝国大学理学部数学科を卒業した。そのまま残り、数学科の講師になった。
この年24歳で、小山みちと結婚した。

1927(昭和2)年、第三高等学校の講師も兼任した。1929(昭和4)年28歳の時、京都帝国大学理学部の助教授になった。この年から3年間フランスに留学。ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所に通った。「多変数関数論」を生涯の研究分野に定め、ことに1934年暮れ、この分野の状況を分析したH.BehnkeとP.Thullen共著の本に接し、この分野に未解決の問題三つが残されていることを知り、以後この解決に研究を集中し、1953年 当初の主要問題すべてを解決した。
1932(昭和7)年31歳の時、広島文理科大学(現 広島大学)の助教授になった。5月に、フランス留学を終えて帰国した。1940(昭和15)年39歳の時、病気のために広島文理科大学を辞職した。10月、京都帝国大学より理学博士号を受けた。
1941(昭和16)年40歳の時、北海道帝国大学理学部研究補助の嘱託に単身で赴任した。1942(昭和17)年、辞職し、和歌山に帰郷した。

1949(昭和24)年48歳のとき、奈良女子大学家政学部教授(のち理学部と家政学部が分離し、理学部教授)になった。1951(昭和26)年、奈良市に転居した。1954(昭和29)年4月から、京都大学理学部非常勤講師を兼ねた。1964(昭和39)年63歳で、奈良女子大学教授を定年により退職した。京都大学非常勤講師も退職。奈良女子大学名誉教授、奈良女子大学非常勤講師になった。1969(昭和44)年68歳の時、京都産業大学の教授になった。

岡 潔は、多変数複素関数論において大きな業績を残した。一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、現代数学は一変数複素関数を多次元化する試みであるということもできるが、多次元化には一変数の時にはない本質的な困難がともなう。この困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡 潔であった。

岡 潔は当時の重要な未解決問題であったハルトークの逆問題に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを解決した。その過程で不定イデアルという現代の数学において極めて重要な概念を考案した。また、「岡の原理」も著名である。
また、岡 潔は、数学とは直接関係のない随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。日本の現状を憂い、随筆の執筆や講演などを通じて、文化と教育の本質に関わる問題について発言をつづけた。

岡 清は、数学において顕著な業績を残しているが、数学は哲学に通じる面があり、哲学は人間の本質に迫るものであり、教育につながるのだろう。

企業においても、ただ会社の利益をあげるだけでなく、人類を心豊かにすることを目的にし、それは商品を通じて行うわけであるが、一方では社内の人に対し業務を通じて人間性を高めるための教育を行うようにすればよい。


岡 潔のことば
  「そうなんですよ、芸術はくたびれを直すもので、
    くたびれさせるものではないんですよ」


岡 潔の本
  日本のこころ (講談社文庫)
  情緒と創造
  日本の国という水槽の水の入れ替え方―憂国の随想集
  岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))
  評伝 岡潔―星の章、花の章
  天上の歌―岡潔の生涯
天上の歌―岡潔の生涯岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))日本の国という水槽の水の入れ替え方―憂国の随想集情緒と創造