刀よりも弁論で   

板垣退助

きょうは政治家で自由民権運動指導者 板垣退助(幼名:猪之助、名:正形、通称:退助)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1919(大正8)年逝去(83歳)。

土佐藩(現 高知県)の武士 乾正成の子として生まれる。幼少の頃から母を困らせるほど腕白で、読み書きはあまり好きではなかった。若い頃は喧嘩を探して城下を歩いたという剛の者で、上士、郷士構わずに因縁をふっかけ、思う存分叩きのめす毎日を送っていたという。20歳の時、傷害で高知城下4ヶ村外追放の処分を受けた。
その頃 吉田東洋の塾に入り、その影響を受け文武の修業に励むようになった。そして、東洋の側用人に抜擢され竹馬の友の後藤象二郎と共に藩政を仕切るようになった。

高知藩主 山内豊信(やまうち とよしげ、号:容堂)の側用人などをつとめるが、藩の公武合体路線と相容れず、武市半平太らの「土佐勤皇党」など討幕派と連携。1863(文久3)年26歳のとき、土佐を脱藩した中岡慎太郎坂本龍馬を知り、彼らに感化され土佐藩倒幕派の急先鋒となった。1867(慶応3)年、中岡や西郷隆盛らと会談し薩土連合による倒幕を密約した。
しかし師の東洋を殺された恨みから、土佐勤皇党の弾圧には情け容赦なく、武市以下、党員を一斉に処刑した。
山内豊信は、板垣の勤皇思想を「過激で無知の証拠」とたしなめたが、一本気で情に厚い性格と、武人としての資質を高く買っていた。

戊辰戦争(維新政府軍と旧幕府側との間に16ヶ月余にわたって戦われた内戦)で新政府軍の参謀として土佐藩兵を率い、幕府の親衛隊 白虎隊と戦って武功をあげた。この時、「乾」という姓を「板垣」に変えた。会津戦争では大殊勲を立て、永世賞典禄千石を授かった。高杉晋作と並ぶ実戦指揮の天才で、土佐藩の実質的な陸軍司令となり、薩長に次ぐ倒幕勢力に育て上げた。

明治維新後は、陸軍の長州、海軍の薩摩という流れがあったため、軍人から政治家へ転向せざるをえなかった。土佐藩の大参事となり、藩の改革を行った。1871(明治4)年34歳で廃藩置県を断行した。参議となり、岩倉遣外使節団派遣後の留守政府をあずかるが、西郷隆盛らと征韓論(武力を用い、朝鮮を開国させようとした考え)を唱えたが受け入れられず、1873(明治6)年に下野した。

1874(明治7)年、ともに下野した後藤象二郎らと、「有司専制」(薩長専制)を厳しく批判し、人民の自由と民権の確立が必要であると「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。このことが新聞に掲載され、議会設立の世論が高まり、「自由民権運動」になった。

のちに愛国社の主軸となった愛国公党立志社を設立し、自由民権運動の先頭に立った。1881(明治14)年、政府は明治23年を期に国会を開設するという「国会開設の勅諭」を発布した。しかし、政府は一方で自由民権運動を弾圧し、条例を改正して、暴動に繋がる運動を厳しく取り締まった。

板垣は、1881(明治14)年44歳のとき「自由党」を結成し総理に就任した。これが日本で初めての政党の誕生となった。翌年、岐阜での遊説の途中に、暴漢に襲われ斬りつけられた。1884(明治17)年 自由党を解散。1890(明治23)年、「立憲自由党」を結成した。

後に第2次伊藤博文内閣の内務大臣を務めるが、肌が合わなかった。1898(明治31)年には大隈重信と共に「憲政党」を結成し、第1次大隈内閣(隈板内閣といわれた)の内務大臣を務めた。1900(明治33)年内閣不統一で政界を引退し、社会改良運動に晩年を捧げた。

板垣は、議会政治の基礎を作った人物とされ、戦後も高い評価を得ている。本来軍人になるべき人間が、刀よりも弁論で自由を勝ち取る自由民権運動の先駆者となったのは皮肉である。
維新の功績で伯爵の爵位をさずかり「華族」になったが、「維新の功績は一代限りとして世襲するのは反対」として、死後、華族の位を返上させた。

板垣退助は、当時の薩長主体の政府に敢然と戦いを挑んで、結果としては負けた形になっているが、その考え方はのちの議会運営や日本人の思想に大きな影響を与えている。

企業においても、現状を革新しようとするなら、自分は犠牲になっても今後が良くなればいいという考え方で、思い切ってやらないと成功は望めない。自分が良くなりたいだけでは改革どころか改悪になってしまって、会社も大きな損害をこうむることになる。

■板垣死すとも自由は死せず■
板垣退助が岐阜で遊説中に、暴漢に襲われ負傷した際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫び、民衆の共感を得たという説が流布しているが、実際には板垣はこのようなことは言っていないようだ。また負傷はしたが、亡くなってはいない。
この事件の直後、小室信介というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ亡ビズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったようだ。
ちなみに、このとき板垣を診察したのが、のちに東京市長などを歴任する、25歳の若き後藤新平だ。



板垣退助の本
  板垣退助全集 (明治百年史叢書)
  板垣退助―孤雲去りて (上) (人物文庫)(下)
  板垣退助―自由民権の夢と敗北
  板垣退助―三日月に祈る自由民権の志士 (時代を動かした人々 維新篇)
  板垣退助 (歴史人物シリーズ―幕末・維新の群像)
  板垣退助・大隈重信・新渡戸稲造 (ぎょうせい学参まんが歴史人物なぜなぜ事典)
  板垣退助;中江兆民 (NHKカセットブック 歴史と人物 6)
板垣退助―三日月に祈る自由民権の志士 (時代を動かした人々 維新篇)